2020年9月24日 フォトグラファーハル写真展「Flesh Love All」の残すところ3日間!!。

フォトグラファーハル写真展「Flesh Love All」の残すところ3日間です。

毎日、この度の作品「Flesh Love All」と向き合っている。

 

ギャラリーの開館は11時だが、私は9時30分にはギャラリーに入る様にしている。

空気の入れ替えを終えて、毎日30分間〜1時間は展示作品と対峙させて戴いている。

静かに作品を鑑賞させて戴いている。

私の至福の一時でもある。

 

この度の作品「Flesh Love All」の作品に正直、戸惑いが増している。

それも、日々、毎日、戸惑いは増すばかりだ。

展示作品はタイトル「Flesh Love All」やテキスト(ギャラリー冬青のホームページ参照)を遥かに超えて、作品の存在価値が増し、増大している。

なぜなのだろうと毎日、疑問を戴いて観ていた。

その事が多少、解りかけて来た・・・。

 

作品がタイトルやメッセージを超えて「Flesh Love All」そのものが、存在価値を増していた・・・。

私は今迄、テキストの大切さや、語ることの大切さを強調もし強要もしてきた。

しかし、この度フォトグラファーハル氏の作品「Flesh Love All」は言葉は一切いらない。

作品が物語を毎日、作り出している。

 

真空パックのシリーズの行為は4作目となるのだが、明らかに1作目〜3作目と4作目作品とはベクトルが真逆に働いていると思う。

感じている。

1作目〜3作目は密着、密着、更に密着させる事に深い意味があり、テーマやコンセプトを求め表現して来た。

その密着のベクトルは内側、内側と向いて来た。

世界で最も少数の組織である2人を密着させる事で寄り理解し合う事が出来る。

2人から次成るカップルへとリンクすることで、フォトグラファーハル氏流に言えば愛がリンクし世界へと繋がって行く・・・。

 

それに対してこの度の作品「Flesh Love All」は始めて、社会と繋がり、世界ともリンクし始めている。

確かな社会性を得た「Flesh Love All」。

私たちはどんなに嫌でも、どんなに拒否しても個人は、社会と繋がって行かなければ個人生活すら出来ない。

その意味で「作品」はどこがて社会と繋がりを見せなければならない。

表現者は個人と社会の関係性を意識しなければならない。

「作品」は社会性を何処かに、何処かで求められている。

 

確かな社会性を得た「Flesh Love All」。

「Flesh Love All」は外へ外へとベクトルが働いている。

フォトグラファーハル氏が願う、カップルの連鎖的反応が繋がって行けば「国境・地域性・文化・歴史的対立」など、更には「貨幣価値・物質的価値」などまでが存在感を無くし、友を他を理解し共有出来るとの思い、信念。

 

言葉はいらない「Flesh Love All」。

ただ、ただ観るだけ。

ただ、繋がるだけ。

観た人々が其々の想いを語ってくれる作品「Flesh Love All」。

もう既に作家、写真表現者・フォトグラファーハル氏の枠を超えて「Flesh Love All」は世界に語りかけている。

作品が作品として一人歩きをし始めている。

世界の人々へ、写真家・写真表現者・フォトグラファーハル氏の想い・意志を乗せて。

 

写真展「Flesh Love All」残すところ、本日も含めて後3日間です。

 

●作家在廊日=9月24(本日)・25・26日の11時〜19時(確定日)

 (ほぼ午前11時から毎日在廊されます。)

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。


2020年9月23日 作家がテキストを書くのは当たり前・・・

作家が作品に対してテキストを書き、述べることは当然であり当たり前のこと。

観る側が知りたいことは・・・。

1.作家が何故、写真表現者であらねばならないのか。

表現手段は幾らでも他にあるはず、絵画や彫刻、詩や俳句、音楽や作家活動、書道や日本画、茶道や華道などなど幾らでも・・・。

2.発表される作品について何故、写真表現であらねば成らないのか。

3.発表された被写体になぜ作家は向かわざるを得なかったのか。

4.発表された作品と自身の関係性(自身の意志、考え、哲学的もの)。

アイデアや経験、体験や方法論だけでは作品には成り得ない、海外では通じない。

 

そうでなければトーマス・ルフ (ドイツの写真家)の様になにも語らないことだ!!。

回りに語らすこと。

回りに語らす努力、努力、更に努力(営業的努力・技術的努力・思想的努力・継続的努力などなど・・・)その上で好運に恵まれるチャンスを掴む努力、努力、更に努力が必要。

 

日本人作家はトーマス・ルフには通常的にはなれない。

日本ではスポンサーやコレクター、発表の公共の場や機会、写真のコマーシャルギャラリー・プライマリーギャラリーが極端に少ないことである。

ツアイト・フォト・サロンの故・石原悦郎氏は当時、無名であった植田正治さんや森山大道さんらの作品をヨーロッパに持ち出し積極的にオークションに掛けたり、展示をされた。

ツアイト・フォト・サロンの故・石原悦郎氏は写真専門のコマーシャルギャラリーとして先駆者であり、世界的に有名。

しかし、当初はプライマリーのギャラリストとして当時の若手の写真家を数多く海外に紹介された、功績の方が大きいと私は思っている。

 

この世界で羽ばたくには・・・。

その一つには=写真表現者には1〜4迄がとても必要な要素になる。

その二つには=営業的努力・技術的努力・思想的努力・継続的努力などなど、その上で好運に恵まれるチャンスを掴む努力、努力、更に努力が必要だと感じ思う。

 

●作家在廊日=9月23日(本日)24・25・26日の13時〜19時(確定日)

 (ほぼ午前11時から毎日在廊されます。)

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。


2020年9月18日 作家にとって、誹謗中傷は当たり前のこと・・・。

表現者であれば誹謗中傷など当たり前・・・。

例えば、キュービズムを確立したと言われるピカソ。

発表した当初、キュービズムは散々な酷評にさらされ封印を余儀なくされた。

「ゲルニカ」を発表するまで20年間、ピカソはキュービズムを封印している。

 

ピカソが得意とした手法、技法、「換骨奪胎(かんこつだったい)」だと呼ばれている。

「換骨奪胎」とは『他の画家や作品の技を「真似」、「盗み」、単に模倣するのではなく、元の作品をすり替えてしまうほど、徹底的にアレンジし、デフォルメしてしまう手法のことを言います。』

 

ピカソはドキュメンタリー映画の中で自ら「芸術には進歩はなく、変化があるのみだ」とも語っている。

オリジナル作品が優れているとは限らず、解釈やアレンジ、デフォルメすることで自身らしさの作品を構築していくなかで、自身のオリジナルティが生まれること・・・。

 

ダイン・アーバスもこう語っている。

小説や絵画などの芸術作品を作るには、模倣がつきものです。しかしコピーするだけではただの盗作で、「パクリ」になってしまいますよね。そこで、自分なりの表現やアレンジを付け加えていくことで別の作品になり、「オマージュ」として成立するようになります。

 

特に装置を使わざるを得ない写真表現は「換骨奪胎」の行為は避けて通れない行為だと考えられる。

寧ろ必要な行為だと思われる。

自分らしさや、オリジナルティが生まれる迄、徹底的に諸先輩や同僚の手法、技法を理解し求め探求することが大切に思えてならない。

そのプロセスで「似ているとか」、「モノマネとか」、誹謗中傷されても挫けることなく自身の道を歩ことが大切に思えてならない。

ピカソはキュービズムを構築して20年間余、封印してキュービズムを復活させた「ゲルニカ」。

誹謗中傷は裏を返せばそれだけ注目をされていることでは無いでしょうか。

 

自身が自身のことを一番理解している筈です。

「モノマネ」なのか「換骨奪胎」なのか・・・。・・・・。

自身が自身に問うてみれば直に理解出来るはずです。

その上で誹謗中傷はありがたい意見だと聞き流せば良いことになりませんか!!。・・・。・・・。

 

「換骨奪胎」を繰り返す中で、キット自分らしさのオリジナルティが生まれる筈です。

 

●作家在廊日=9月18・25・26日の13時〜19時(確定日)

 (ほぼ午前11時から毎日在廊されます。)

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 

 

 


2020年9月17日 有限と無限の決意と決断・・・。

時々、フイルムカメラ(古典技法も含む)とデジタルカメラのEnd point(終点)の違いは何処にあるのかと考えることがある。

そのEnd pointを理解出来れば、フイルムカメとデジタルカメラの違いがより鮮明になるのではと思っているからだ。

フイルムカメラ(古典技法も含む)は有限の時間〜有限(決断)の時間に対して、デジタルカメラは有限の時間(シャッターを切るチャンス)〜無限の時間ではあるまいかと考えるように成っ来ている。

 

例えば、フイルムカメラは被写体を写し得たら、フイルム現像(有限の時間と決断の瞬間)→定着(有限の時間と決断の瞬間)→水洗い→乾燥→結果が解り理解出来る。

更に紙焼き(有限の時間と決断の瞬間)→現像(有限の時間と決断の瞬間)→定着(有限の時間と決断の瞬間)→水洗い→乾燥→結果が解り理解出来る。

 

のに対して・・・。

デジタルカメラは有限の時間〜無限の時間(endless)ではと思っている。

被写体に向けてシャッターを切る。→パソコン(周辺機器)に取り込む→フォトショプ修正→無限の時間(endless)〜無限の時間(endless)。修正を加えても思考の変化や新機種が出れば心は揺らぐ・・・。

 

フイルムカメラは瞬間、瞬間で時間や意志を決断を致さねばならない。

デジタルカメラでのフォトショプでの修正は瞬時の決断や意志の決断を迫られることはない。

もっと酷くは後でフォトショプでの修正が出来ると思うことである。

無限大に限りなく修正を行える。

後日、日を改めても手を加えることができる。

正に無限の時間(endless)である。

極端なことを言えばEnd point(終点)が見えない、ど壷にはまることが恐ろしい。

 

アートは、その中でも写真表現は決断、瞬時の意志の確認、決意が迫られる芸術表現だと理解している。

「有限の時間と決断の瞬間」ではベストを目指しながらもベターで決断しなければならないことも多く有ると思われる。

また、真逆で自身が考えていた以上のベストな作品表現出来ることもあるに違いない。

それは「有限の時間と決断の瞬間」がなし得られる、神様からのご褒美と本人の努力の賜物だと思う。

 

無限の時間(endless)を与えられるものに対しては、常に不安が募り増し、End point(終点)を見出せないでいるのではなかろうか。

 

「有限の時間〜有限(決断)の時間」を選ぶのか、「有限の時間(シャッターを切る時間)〜無限の時間」を選ぶのかは貴方の決断次第。

 

●作家在廊日=9月17・18・25・26日の13時〜19時(確定日)

 (ほぼ午前11時から毎日在廊されます。)

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。


2020年9月16日 作家の価値・・・。

作家の価値、ステータスについて考えることが多くなっている。

作家の価値とは端的なことを言えば、高橋流に言えば、現役時代にコレクターの方々に何枚の作品をお渡し出来るか、出来たか、にと思っている。

お渡し出来た作品の点数が作家の価値に比例すると考えます。

写真賞に留まらず芥川賞、直木賞でも受賞作一作で忘れられた作家が如何に多いことか・・・。

 

作家の命題、生命はコレクターの方々の心、魂を現役の時代に掴むことに心がけなければならない。

観れば解るといった時代はもう古い。

コマーシャルギャラリーは、特にプライマリーギャラリーは作家と諄い程、作家の作品と対峙し作家と対話を重ねばならない。

展示作品を共有するだけではなく、作家の意志とギャラリーの意志を共有しなければならないと思っている。

 

特に日本と海外のコマーシャルギャラリーの違いは、作家にオープニングパーティーすら出席を拒むギャラリーがある。

その大きな理由はギャラリーの大切なお客を、作家に知られたくないと言うことをニューヨークでもパリでのギャラリーで、お聞いたことがある。

そのため芳名帳など作家に渡すことはない。

ロサンゼルスで活躍されている作家、渡邉博史さんは自身の処に作品を求めに来た、お客さんやコレクターに対しても、自身で直接販売することは決してない。

全てギャラリーを通され作品を渡されている。

コマーシャルギャラリーと作家の信頼関係の構築に強い意志が感じられる。

 

また、日本の場合はギャラリーに作家がいることがとても大切に思える。

欧米と全く真逆。

私は日本のギャラリーでは日本式がとても良いと思っている。

欧米に真似ることはない。

寧ろ作家は一日でも多くギャラリーに居ることが大切に思う。

特にプライマリーギャラリーは日本型が望ましいと思っている。

共に会話が出来ることが大切であり楽しくもあり、望ましい。

事実、作家の在廊日の日数と作品の売れ行きは比例している。

 

コマーシャルギャラリーは、特にプライマリーギャラリーは単に作品を展示し販売するスペースではない。

コレクターの方々と会話を楽しむ場でもある。

作家の作品制作のプロセスや作品に込められた意志、作品そのものの会話を楽しむ場である。

自身の作品を展示し販売を目的とするだけなら、レンタルギャラリーをお進め致します。

 

コマーシャルギャラリーは、特にプライマリーギャラリーは単に展示者の作品を展示するだけではなく、様々なアートの会話を楽しむ場でもある。

 

作家の存在価値は現役時代に、自身の作品をどれだれコレクターの方々にお渡し出来たかで決まる。

 

●作家在廊日=9月16・18・25・26日の13時〜19時(確定日)

 (ほぼ午前11時から毎日在廊されます。)

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。


2020年9月15日 竹谷出写真作品集「影泥棒」を終えて。

先週、凸版印刷・川口工場で竹谷出写真作品集「影泥棒」が先週の木曜日に印刷立ち会いを無事終えた。

奥付には発行者、高橋国博と記載する最後の写真作品集になりました。

後は発行者、岡野惠子・編集者、高橋国博と掲載されることになると思っています。

 

一台(8ページ)、合計本文18台それに、加えて表紙・カバー、総合計20台の印刷立ち会いを終えた。

正直、私に取って写真作品集「影泥棒」はとても、難しい写真作品集であった。

今迄の常識がややもすれば出でしまう。

邪魔をしてしまいそうになる。

今迄の写真作品集は立体感があり、遠近感があり、それぞれの「人々」や「もの」(雲・水面・影・植栽などなど)ボリーム感を持たすために、切り抜きを致し、中間部分を増やし元の版に納めるというような、厄介な作業を凸版印刷の猪野さん、杉山さんにお願いをしてきた。

真逆の発送を迫られた・・・。

 

今迄の常識を全て捨て去り写真家・竹谷出さんの作品への想いを読者の方々に伝えねばならかった。

朝9時から始った印刷、終えて川口工場の表に出で見れば空は真っ黒。

12時間以上も印刷機と対峙していたことになる。

 

「写真作品集を芸術の花束として、世に送りだす」との一念で数多くの写真作品集を世に送り出して来たつものではあるが・・・。

私が写真集と出会った(以前いた芸術系の出版社)ころは、プリントより印刷が劣ることが当たり前の常識であった。

写真家も編集者も当たり前のこととして受け止めていた。

印刷だから仕方がないよね!!。

ここまでで十分と・・・。

日常的、常識的に交わされていた言葉です。

当然、当初は私もそう思っていた。

 

独立し写真集を手掛けるようになり、なぜプリントより印刷が劣ることが当たり前なのかと疑問を持ち始めた。

そこで印刷機のことやインク、紙の事を徹底的に調べた。

とにかく印刷の仕組みを徹底的に勉強したことを思い出していた。

紙などは実際に口に入れ、味や繊維を確かめたこともあった。

プリントを超える印刷は出来ないものかと・・・。

必死にもがき苦しんだことを忘れられない・・・。

 

細江英公先生の写真集を担当させて戴いたとき、細江英公先生が一言、盒兇気麕佑離廛螢鵐箸茲衄しいですねと、言葉を掛けて下さった。

プリントより美しい写真作品集の門出の出来事となったことは確か。

涙が出たことを未だに忘れられない。

冬青社の写真作品集は作家のプリントより美しくあらねばならないことが、常識として認知されている。

常識化された。

 

UV印刷機で3冊目となるこの度の「影泥棒」網点の大きさや、特にインクのことに付いては、一から勉強を致せねばならないと思っている。

「走馬灯」の様に私が携わらせて戴いた写真集が印刷立ち会い中、脳裏に浮かんでは消えとしていた。

「感無量」の様々な想い。

 

最後に写真作品集「影泥棒」という新たなテーマを与えて戴いき、写真家・竹谷出さんの大切な作品を盒兇紡して戴いたことに深く感謝申し上げます。

 

「写真作品集を芸術の花束として、世に送りだす」との想いは一編集者として持ち続けたいと思っている。

 

2021年5月発行のスイスの写真家・コスタス写真集「キャバレー」を一編集者として完成を致さねばならない。

2019年からのお約束、コロラウイルスでなかなか進まない・・・。

 

●作家在廊日=9月15・18・25・26日の13時〜19時(確定日)

 (ほぼ午前11時から毎日在廊されます。)

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 

 


2020年9月9日 絵画は真実、写真は事実

先日、4KTVで美術館巡りの番組を観ていた。

説明役の解説者が印象派の絵画の前で立ち止まり、ある風景画を観て作家は人々の配置や向き、人数、木々などの大きさや色合いまでもイメージを脹らまし描いていると説明。

実写の風景とは異なりますと説明した上で・・・。

最後に絵画は真実を伝え、写真は事実を伝える手段だと説明をしていた。

 

おやおや、おやおや!!。と思った。

解説者は絵画の作家は被写体を観て、自身の魂や想いをイメージ化しキャンバスに描く。

キャンバスに描かれた作品は作家の想いであり、真実そのものだと説明をしていた。

それに対して写真は装置を使用し事実を、事実として写し撮られるのが写真だと・・・。

実写が写真だと・・・。

 

では写真は真実を写し得ないのか、真実を伝えられないのかと瞬時に思った。

写真は真実を表現、可視化されないのかと俄に思った。

写真は事実の証だけなのと・・・。

多少、怒りを込めて最後まで観てしまった。

 

確かに写真表現者はシャッターを切る寸前、ファインダーを除いる時、事実の被写体そのものと向き合っている。

実写する被写体と向き合っていることは間違い無いが・・・。

だからだと言って被写体をコピーしている訳ではない。

実写している訳ではない。

被写体から感じたものを、ことを、可視化致そうと常に試みている。

被写体からのテレパシーを感じなければシャッターは押せない。

テレパシーを感じ自身のイマジネーションを脹らまし、確認しシャッターが押せる。

装置が実写する訳ではない。

可視化されたものは確かに事実かも知れない、しかしそこに含まれている、潜んでいる何かを、観る私たちは感じ取ろうとしている。

観る側の私たちは、写真表現者の真相、心理、正に真実を求めようとしている。

 

TVを観ながらこの解説者は、なんと無責任な解説をしているのだろうと思った。

写真は「写」「真」と書く様に真実を伝えるのが「写真」そのものだ!!。

アート界での写真表現の理解度の低さに悩まされている。

写真専門のコマーシャルギャラリーの低さ、少なさに現れている。

中でも写真専門のプライマリーギャラリーの少なさには残念に思う。

 

怒りを込めて最後まで観てしまった。

 

●明日10日・11日は竹谷出写真集「影泥棒」の印刷立ち会いのためブログはお休みさせて戴きます。

発行者としての最後の写真作品集となりました。

色々に想いが日に日に募っています。

多少興奮気味であります。

後は一編集者としてどのような関わりを持てば良いのか正直、未知数であります。

明日、凸版印刷・川口工場、全力を尽くして参ります。

 

●作家在廊日=9月9・18・25・26日の13時〜19時(確定日)

 (ほぼ毎日在廊されます。)

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 


2020年9月8日 湿版写真は・・・ギャラリー冬青は

湿版写真は現在市販されている、どのデジタルカメラより高精細であることが解った。

東京大学資料編纂室で古写真をデジタル化で・・・。

写された細部まで拡大し当時の生活、文化を探る研究が進められている。

 

その中で湿版写真の情報量はどのデジタルカメラより遥かに優れていた。

ギャラリー冬青は銀塩作品や古典技法に拘り続けてきた。

湿版写真が其れほどに情報量があるとは全く知らずに。

湿版写真のガラス乾板の制作過程、現像、定着、焼き付け、乾燥のプロセスは気が遠くなる。

簡単に湿版写真などとは口が裂けても言えないプロセス。

湿版写真・鶏卵紙・プラチナプリント・雑巾がけ技法などなど気が遠くなるプロセス。

 

なんとなく生身が感じられる作品が、私が好きであることからギャラリー冬青では銀塩写真・古典技法に拘って来た。

体感的に好きであったことに過ぎない。

でも良かったと思っている。

 

デジタルにはない優しさや柔らかさを感じる。

デジタルにはない皮膚感覚や息づかいを感じる。

デジタルとは違った作品へ表現者の重みを感じる。

 

ギャラリー冬青はプライマリーギャラリーとして、表現者の拘りを伝達して行きたいと思っている。

古写真を見ていると撮られた当時は記念写真であったり、ストレートな風景写真であったりとする。

時が立てば不思議である。

色気を感じたり芸術性を感じるまでに成長する。

 

絵画は普遍的なものである。

写真は時間と共に成長する。

その不思議さを特に古写真から感じている。

単なる記念写真であったり、ポートレート写真であったり、ストレートな風景写真ではない。

芸術写真として成長し続けているように思えてならない。

 

これからも拘り続ける銀塩作品・古典技法、ギャラリー冬青。

 

●作家在廊日=9月8・18・25・26日の13時〜19時

 (時間を見つけて随時在廊されます。)

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 

 

 

 

 

 


2020年9月4日 フォトグラファーハル写真展「Flesh Love All」

フォトグラファーハル写真展「Flesh Love All」の作品を世界に先駆けて、本日からギャラリー冬青で展示をさせて戴きます。

「Flesh Love All」の3作品はスイス・モニカギャラリー、フォトバーゼルで公開展示を致しましたが、全作品(現在進行形)13作品を公開するのは始めてです。

2021年ドイツでミュンヘンとベルリンで展示が決まっている。

 

写真表現者・フォトグラファーハル氏は一貫して「愛」をテーマに撮り続けている。

「愛」をテーマにレンズを向け続けていると言った方が正確かも知れない。

二人を密着させる行為は過激さを増すばかりではなく、常にパワーアップしているing(現在進行形)の作品である。

 

写真表現者・フォトグラファーハル氏がカップルを撮り続ける理由の一つに・・・。

フォトグラファーハル氏の行為は「カップル」=「love」と単純なものではなく世界を繋ぎたいと想い、願いからくるものだ。

カップルは最小の組織体である。

二人をリンクさせるだけではなく、より密着させることにより、互いの皮膚感覚ばかりではなく、息づかい、気持、相手を思いやる心、自身の魂を伝え伝達手段として密着行為は「愛」伝える最も純粋な行為だと。

 

カップルからカップルをリンクさせる事により、国境を超え、文化を共有し、宗教感をも超越する。

そこには文物や貨幣価値までも意味を無くしてしまう。

全ての存在基盤である「価値」そのものの意味を無くすことで競争や争い、憎しみや悲しみまでも超越した、世界感に挑戦続けている。

それが「love」であり「愛」であると語る。

 

フォトグラファーハル氏とは18年間長き付き合いになる。

共に歩んで来た。

共に苦しみ横こびもあった。

そこには互いに犠牲もあり、より大きな成果もあった。

 

今では写真表現者・フォトグラファーハル氏の言葉は高橋国博の言葉。

高橋国博の言葉はフォトグラファーハル氏の言葉だと思っている。

英語の「love」と日本語の「愛」との違いも随分語り合って来た。

「love」と「愛」、フォトグラファーハル氏と盒狭馭遒龍δ姪世蓮峺澆い冒曚す腓事」、ハル氏流に言えば「相手を純粋に愛する事」である。

 

新型コロナウイルスの最中「三密」を避けなければならない、その行為を超えた(真空パック)撮影が続いている。

最新作は2020年8月30日に撮られた作品も展示された。

写真表現者魂とでも言えば良いのか!!。

写真家魂を見せつけられている。

世界に羽ばたいているフォトグラファーハル氏の作品。

ギャラリー冬青会期中限定版として、A3ワイドのサイズを特別に制作をして戴き、無理をお願いした。

因に世界サイズはA0作品だけの発表です。

 

このブログでは可視化された作品を具体的には書きません。

作品「Flesh Love All」を実際にギャラリー冬青に見に来て下さい。

驚くべき・・・。

感動すべき作品が展示されています。

ギャラリー冬青の空間で体験、体感、堪能して下さい。

 

作家在廊日=9月4・12・18・25・26日の13時〜19時

 (時間を見つけて随時在廊されます。)

 

下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 

 

 


2020年9月3日 竹谷出写真作品集「影泥棒」に・・・。

一昨日、竹谷出写真作品集「影泥棒」を凸版印刷さんの猪野直貴様・杉山幸治様の元へ、カバー・テキスト類を「責了」させて戴いた。

これで、写真作品集「影泥棒」の全ての校正紙を「責了」し凸版印刷さんへお戻しさせて戴いた。

 

株式会社冬青社・代表取締役社長として又、編集者として最後の写真作品集です。

デザイン担当の白岩砂紀様・営業担当の猪野直貴様・AD担当の杉山幸治様とのチームとしては最後の写真作品集です。

想い出も沢山あり、様々な事にチャレンジさせて戴いて参りました。

 

後は株式会社冬青社・代表取締役社長、岡野惠子様が責任発行者となられる。

2020年1月1日からは本社の住所・連絡先・機能は那須塩原市になります。

今後の写真作品集の制作に関しては、冬青社・代表取締役社長、岡野惠子様の要請があれば、お手伝いをさせて戴く事もあるのではと思っている。

 

最後となった竹谷出写真作品集「影泥棒」に、とても考え深きものを感じています。

「感無量」、様々な想い込めて全ての編集作業を進め進行して参りました。

「感無量」、様々なことが走馬灯の様に思い出しています。

 

この度の写真作品集「影泥棒」は今迄、私高橋が培って来た間逆な写真作品集です。

写真作品集「影泥棒」はインクの事も含めて全ての常識を一端、捨て去る事から始めねば成りませんでした。

 

「アレ・ボケ」の写真集と言えば森山大道さんを思い描く方も多く居られると思うが・・・。

まさに「アレ・ボケ」の写真作品集ですが、森山大道さん「アレ・ボケ」の写真集とは決定的に違います。

コントラストは弱く、暖か味を感じさせたいとの「写真家・竹谷出」さんの強い要望・・・。

可視化する作品は何処迄も「フラット」で、しかも「シャード部」は締めることなく寧ろ明るく、グレーゾーンを豊かにしなければならない。

しかも「アレ・ボケ」・・・。・・・。

進行中、竹谷さんには幾度も幾度も、更に幾度も確認の電話をさせて戴いた。

その裏返しは私高橋が責任能力がない、最終ジャッチが出来なかった事の現れです。

不安が不安を募り、竹谷さんに電話を・・・。

只今、電波のと届かないところに・・・、電源が切れていますとのアナウンス。

翌日に竹谷さんから電話が、北海道の山奥にいて電話が通じませんでした・・・。

(撮影の旅で度々・・・。多少怒り・・盒供)

確認の電話。

私の想い、竹谷さんの想いを確認、確認、更に確認。

 

今迄、私高橋や猪野さん・AD担当の杉山と培って来た知識、常識を全て捨て去り、新たな領域の挑戦をしなければならなかった。

印刷の網点の点数からも違えた、この度は150線で挑んだ(通常175線・冬青社の場合230線が多い)始めての経験へのトライ。

無論、営業担当の猪野さん・AD担当の杉山、デザイン担当の白岩さんも同じ事が言える。

全ての知識や経験を捨て去り、一からの研鑽をしなければ成らなかった。

 

運命と言うのか、神様の意地悪と言うのか最後の最後に来て、写真作品集「影泥棒」への新たな模索、挑戦の日々が続いた。

続いている。

まだ、盒兇賄慘呂足りないと神様に言われているようだ!!。

まだ、盒兇賄慘呂足りないと写真家の方々に言われているようだ!!。

 

正直、今迄の集大成の写真作品集を最後は作りたいと望みもあり、思っていたのだが・・・。・・・。

環境は神様は許して下さらなかった。

私らしい人生と言えば私らしい人生かも知れない。

波瀾万丈の人生であったことを思い出している。

 

一昨日の最後になる校正紙に「責了」と文字を大きく書かせて戴いた。

「責了」とは盒兇全ての責任を持ちますと言う意味。

この通り印刷版はお作り下さいとの「責了=責任校了」と意味です。

 

昨日、杉山さんよりお電話を戴き「この様な(責了)と書かれるのは始めてですねと」お電話を戴いた。

「責了」と言う言葉は編集者であれば日常的に使う当たり前の言語。

盒兇斑野さん・杉山さんの間では何故か解らないが「責了」では無く常に「OK」と書かせて戴いて来た。

共に「OK」ですね!!。

共に大丈夫ですね!!。

サアーこれから行きましょう。

との意味であったと思う。

これもまた何故か解らないが、この度は「責了」と書きたかった。

 

竹谷出写真作品集「影泥棒」。一昨日、全てを「責了」致しました。

凸版印刷・川口工場で9月10日・11日印刷立ち会いの日を迎える。

 

只今、私は2021年5月発売予定のスイスの写真家・コスタス氏の写真作品集「キャバレー」を進めている。

発行者=岡野恵子・編集=高橋国博で。

 

下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。


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