2017年8月18日 「限界芸術」論・・・???。

哲学者の鶴見俊輔氏(1922〜2015年)が唱えた「限界芸術」論

鶴見俊輔氏は(限界芸術」ちくま学芸文庫、14ページ)なかで『今日の用語法で「芸術」とよばれている作品を「純粋芸術」(Pure Art)とよびかえることとし、この純粋芸術にくらべて俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられる作品を「大衆芸術」(Popular)と呼ぶこととし、両者よりもさらに大きな領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」(Marginl Art)と呼ぶことにして見よう。』

 

鶴見氏は引用につづいて、それぞれの役割りを次のように説明しています。

●純粋芸術=専門的芸術家によってつくられた、専門的享受者をもつ。

●大衆芸術=専門的芸術家によってつくられるが。制作過程は起業家と専門的芸術家の合作となり、享受者は大衆となる。

●限界芸術=非専門的芸術家によってつくられ、非専門的享受者によって享受される。

 

鶴見氏は限界芸術という概念を今日的なテーマとして考えるに至った根拠は次のようなことではないかと語っています。

まず、限界芸術は「芸術の根源が人間の歴史よりはるか前からある喜びに発する」ことであり、のちにそれが「地上にあらわれた芸術の形は、純粋芸術、大衆芸術を生む力」となったという歴史があります。

さらに私達は限界芸術の諸ジャンルであったという主張です。

以上のことは分りぬくいロジックですが・・・。

 

鶴見氏は次のことを言いたいのではないかと思います。

今日的には「新しい役割り」を負わされているのではないか、ということです。

では具体的には「新しい役割り」はどのような意味をもっているのかということです。

 

すべての芸術家が特別の人間ではない。それぞれの人間が特別のの芸術家なのであり「芸術の意味を、純粋芸術、大衆芸術、限界芸術よりひろく、人間生活の芸術的側面全体に開放するときはじめて重みを持って来る」と鶴見氏は語っています。

 

要するに鶴見氏は限界芸術は、今日の「芸術の意味」を「人間生活の芸術的側面に全体的に開放するとき」重要なテコとなるに違いないと私達に語りかけているのではと思います。

 

柳宗悦が唱えた「民藝運動」にも通じるところがあります。

鶴見氏も限界芸術について具体的に次ぎのことをあげています。

「盆踊り、こけし人形、刺青、盆栽、箱庭、しんこ細工、花火、草履の鼻緒のハナネジリなどをあげています。

 

このことから言えば、私達生活そのものが芸術です。

作るのも、見るのも、求めるものも、身につけるのも、味合うものも、生活全てが芸術です。

「芸術生活」そのものです。

 

芸術をもっと身近なものにしたいと人は常々は願っているはずです。

自身の言動や心のゆとり、身だしなみなどなどをチット気配りして生活をしてみてはどうでしょうか。

他への気遣いも必要かも知れませんね。

 

※2017年8月25日19時より谷口タツロウ(8月期写真展作家)&土田ヒロミ先生のとトークショーが開催されます。

先着35名様 会費1,000円

●お申し込みはギャラリー冬青 <gallery@tosei-sha.jp>のメール、電話03-3380-7123にてお願い致します。

 

■下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。


2017年8月17日 新しい知見を検証すると言うこと・・・

人は年を重ねると自身の経験や知識で新しき「もの・情報」を意識、無意識の内に拒否することが多くなります。

世の中の現象をみれば(進歩というか新たな発見、見解が・・・)常識と思われてきたことがそうではないのではと思われ始められています。

一つの例をあげれば、歴史教科書でも縄文文化、弥生文化でも今迄の常識を覆される発見があったり、見解が締めされたり致しております。

日本の中世以来の社会感でも揺らぎはじめ、それまでと違った日本社会が明らかになりつつあり、教科書までが書き換えを余儀なくされています。

今迄の常識が常識でなくなったことを示しています。

 

新しい「もの・情報」(アート表現、アート作品)を拒絶するのではなく、先ずは受け入れことにより、自身の知見を広げ自身の視野を広げることに繋がるのではないでしょうか。

世の中にはかって経験をしなかったことが、起っていることを気づかされる切っ掛けになるかも知れません。

自身の考えや方向性に凝り固まらず、世の中には何かが常に起っているということを理解して置くことが大切に思えます。

 

今迄の経験知ではカバーできなかったことが、生起(特に若い世代に)していることに対して、無縁だと思わずに先ずは受け入れてみて、最終的には自身の物指しで取捨選択をすればと思います。

例えばギャラリー冬青に置いては8月期(様々な実験の月間)を除き、基本的には銀塩作品かCプリントしか展示を致しません。

 

中には時代遅れ、時代錯誤と揶揄される方々も多く居られます。

今のところギャラリー冬青のスタイルを代える気持はありません。

クラシック技法、作品をこよなく愛して行きたいと思うばかりです。

年を重ねることはまんざらでもないこともあります。

自身の尺度や器が多少、ゆとりがあるように思えます。

ものの見方、感じ方が自身の物指しの長さが長く成り、器の大きさが大きくなることです。

経験により自身の知見、視野が広がったと思えることが多く経験を致します。

 

とは言え、もっと積極的に自ら、新しい知見、視野を広げて行くことは編集者としてキュレターとしての役割りであり使命だということを肝に銘じておかねばなりません。

また、高橋国博の人生の楽しみを増幅するためにも、新しい知見、視野を広げて行きたいと思って居ます。

 

自身の知見、見識、視野について常に検証を致して行かねばならないと思う昨今です。

 

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2017年7月16日 ハンス・アビング著「なぜ芸術家は貧乏なのか」

「金と芸術なぜアーチストは貧乏なのか」ハンス・アビング著 山本和弘訳 

お盆休みにこの本を読んでいたら萬代屋宗安がハンス・アビングについて次の様に解説されていた。

 

■以下、萬代屋宗安のハンス・アビングについての解説です。

全文に青字にしたいところではありますが、青字の個所は高橋が特に納得を致した個所です。()は高橋が付け加えた個所です。

今日のブログは萬代屋宗安のハンス・アビングについての解説を掲載させて戴きます。

 

とても面白い本でした。著者のハンス・アビングはアーティストであり経済学者でもあります。彼は私が芸大に入ってからずっと疑問に想っていたことをすべて解明してくれました。なぜ、芸術に携わる人、特に芸大の教師達が商業を嫌うのか。それは芸術を『神聖なもの』(芸術神聖神話)と見る思い込みが原因だったのです。19世紀末にボヘミアンアーティストが多数生まれた頃からそのような思想が定着したようです。(真善美説がいかに現実的ではないとの問いが沸き起こって来たと思います。起ってきました。)しかし、結果として、多数のアーティストが食えない。食えないことを礼賛するアカデミズム。しかし、それではいけないと私は思います。商業を排除し、助成金にたよる事が一層貧しいアーテイストを増産する結果となっている事も著者は解明している。著者が最終段階で書いていることも私と同意見でした。アートを神聖なものだと想うことが、アーテイストを誤った信念へと導いている。間違った信念とは、『霞を食べて創作する』事です。しかし、私は本当の芸術というのはそんなもんじゃないと想います。人の暮らしを豊かにし、感動を与えるのがアートであって、感情や信念の勝手なばらまきはアートでもなんでもないのだと想うのです。私は食える芸術家・工芸家を育成しなければならないと想います。この本は、私のそんな考えの裏打ちをしてくれる名著でした。

 

芸大や美大で学ぶ方の中には、プロとして芸術で食べていきたいと想っている方も少なくないと想います。

しかし、私の知っている限り、商業的な作品をこき下ろす教師達も多々いるように想います。

『純粋芸術』に対して『応用芸術』と呼び、いわゆるローアート扱いをするのです。

しかし、私は断言します。

芸術にローもハイもない。

あるのは名作と駄作だけです。

売れると言うことは、生活の中に入るということであり、作品が生活者を豊かにする機会を得るということです。

作品がこの世に生まれてくる事に於いて、これ以上のシチュエーションは無い、と私は思います。

写楽や広重、北斎がそんなに高尚な気持ちで描いたと想いますか?

芸術の使命というのは、人の生活を豊かにすることです。

アーテイストの勝手な感情の発露なんかでは断じてありはしない。

500ページを越える分厚い本で、かなり読み応えがありますが、

芸術や工芸でプロになろうとする人、特に大学などで高等教育を受けている人には特にお勧めしたい本です。

私は、芸術家・工芸家が豊になり、幸福になるために、この『神聖な物からの呪縛』から解いてあげたいと想います。

 

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2017年8月10日 繰り返すこと、再構築、再々構築が大切・・・。

写真作品集の制作に当たっては、編集から製本終了時まで繰り返すこと、再構築、再々構築が大切だと痛感している。

編集者には粘り強さが求められている。

最近、とみにそう思う。

 

昨日、船尾修さんの写真作品集「カミサマホトケサマ国東半島」を凸版印刷さんに初校戻しをさせて戴いた。

船尾修さんは大分県・国東半島で半農・半写真家として生活をされている。

魚・肉以外は全て自給自足。

国東半島に移住された切っ掛けは国東半島を撮りたいとの思いから。

移住されて17年間が過ぎる。

 

船尾修さんがネパールの高山にガイドの責任者(ポーターだけでも100人を超える)として引率され、体調を崩され帰国された、昨日の初校戻しには立ち会われなかった。

海外の作家を含めて始めてのこと。

 

校正紙を何度も、何度も繰り返し見た。

作家、船尾修さんであればここはどうしたいのかと、思いを脹らませれば脹らますほど前に進まない。

ようやく、終えてホットした、翌日もう一度、見直して見ようと思い見始めたら見落としが出てくる。

船尾修さんであれは絶対にこうは思わない。

また、追加の赤字を入れ、赤字を入れたものを消したりして終えた。

 

数日経つとまた、また、気に成り始め、始めから校正紙に向かった。

見落としが出で来る、先日消した赤字を復活させたり新たに赤字を入れたりとした。

船尾修さんが居ないことに正直、多少イラダチを覚えた。

船尾修さん!!。

こんなこともあると、自身に言い聞かせながら校正紙に向かった。

無論、船尾さんには度々、電話を幾度も入れて来たが電話では細部が伝わらない。

 

いよいよ(昨日)今日、凸版印刷の杉山幸次さんの元に・・・。

早めに出社し校正紙を改めて見直した。

見落としや、船尾修さんの思いを勘違いしていないか最後の検証と確認。

ヤッパリ出て来る。

ヤッパリ出て来た。

自信のなさが赤字を入れたり、消したりとしたあとが。

その確認作業と新たに赤字を追加した。

 

丁度、終えたときに猪野さんと杉山さんが来社された。

杉山さんと一カ所、一カ所、一ページ、一ページ確認をし意見の交換をさせて戴き終えた。

わりとスムーズに終えたと思う。

 

船尾修写真作品集「カミサマホトケサマ国東半島」の校正を終えて思うこと。

繰り返すことの大切さ、船尾修さんの思いを再構築、再々構築をすることの大切さを改めて感じた。

粘りが大切。

粘れば何かが生まれ、新たなものが見え始められると、この度の経験で思った。

 

でも、でも、まだ自信はない。

印刷立ち会いの当日が最後の勝負。

 

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2017年8月9日 人は何のために「楽しみ、感動する」のか・・・。

そもそも、人は何のために「楽しみ、感動する」のかと平凡な疑問が湧くことがあります。

美しいものを見たとき。

音楽を聞いたとき。

スポーツを見たとき。

絵画や写真を見たとき。

映画や舞台を見たとき。

思わぬ写真集や書物と出合ったとき。

一枚の絵画、写真作品を求めたとき。

恋人や家族に意志が伝わったとき。

ひとは様々のことに歓喜致します。

スボーツでもルールを理解していなければ歓喜することはありません。

オリンピックでラクビーか優勝しても、ルールが解らなければ歓喜する度合いは減少致します。

アートでも、ある程度の知識を持って見なければ「楽しみ、感動する」度合いは少ないのではないでしょうか。

 

小林秀雄氏はある講演の中での質問者の「絵や音楽は難しくて良く解らない」との問いに対して、次のように答えています「何も考えずに、沢山見たり聴いたりすることが第一だ」と。

小林秀雄氏は別の著書の中である一定の知識、理解力を持った人は「何も考えずに、沢山なものを見なさい、聴きなさい」と書かれています。

小林秀雄氏が私達に語りかけたいのは「楽しみ、感動する」には、先ずは一定の知識を持ちなさい、その上で「何も考えずに、沢山見たり聴いたりすることが第一だ」と言うことではないでしょうか。

「ある一定の知識」と言うことがキーワードだと言うことが解ります。

 

日常を振り返れば人は「楽しみ、感動したい」と思い過ごしていると思います。

写真作品は絵画や彫刻からみても平均的には安価です。

写真を楽しみたいなら一枚の作品を求めることからをお勧め致します。

その際、作家やキュレーターからコンセプト・テーマなどをお聞きすれば、より意識が深まり、楽しみの度合いも増すと思います。

 

より「楽しみ、感動したい」と思うとき、先ずは一冊の書物、一枚の作品を求め、体感をし知識を得て「何も考えずに、沢山なものを見なさい、聴きなさい」と言うことから始めることをお勧め致します。

 

人は何のために「楽しみ、感動する」のかが増幅されると思います。

人生は心豊かに、楽しみ、感動しながら生きたい、日々を過ごしたいものです。

 

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2017年8月8日 なぜ写真を撮りたいのか・・・。

たまに、人はなぜ写真を撮りたいのかと考えるときがあります。

記録に残したい。

記憶の確認のために。

奇麗だから。

伝達手段として。

芸術表現として。

などなど、挙げれば切りがない程あるに違いありません。

人それぞれに思いを込めて撮られているに違いない。

それはそれとして全てが写真。

 

しかし、写真表現を芸術の領域まで引き上げると意識したとき、ハード面・ソフト面が求められることを意識し認知することが大切なのではと思う。

技術に裏打ちされた意志の表現。

意志を表現するための技術の修得。

欠かせない行為です。

 

何を、なぜ、今、これで、此の様にと言ったことを一つひとつ丁寧に学習し、確認する作業が求められているのではと考えます。

不思議と見た途端、瞬間に旨い、素晴らしいと感じる作品に出合うことがあります。

何かが違う、何かが違うと作品に引き込まれます。

その様な作品はテーマに裏打ちされた技術であり、美意識であったりと致します。

 

なぜ写真を撮りたいのか平凡ではありますが一度、立ち止まり自身を考えて見ることも大切かも知れません。

自身の意志の、意識の確認です。

意志、意識の確認が出来れば一歩前に進めるかも知れません。

 

不足している自分自身の部分に気が付くかも知れません。

チャレンジして見たい部分が明確になるかも知れません。

 

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2017年8月7日 美術史を紐解くとき「なぜ」がかかせない。

先週「なぜ」について書きましたが・・・。

美術史を紐解くときも「なぜ」がかかせないと思って居ます。

今迄、数多くの美術史が出版されたり、話を聞く機会を得てきました。

その多くは「俗」の様式の歴史のうえであったり、現象的な事象を一定の考えのもとに纏められていることに気づきます。

私は考えます。こけまで当然なことのように、当たり前のように通用してきたのは「なぜ」かと。

 

閉鎖的な研究、学問態度が行き詰まりをみせる中、オリエンタリズムへの意識が芽生えても、研究は進みますが美術史の中に反映されていません。

オリエンタリズムはヨーロッパへの影響は陸、海からの交易、戦争、侵略から始ったといっても過言ではないと思われます。

美術というより装粧品としての扱いだと思われます。

美術の中の一部に留まっています。

「なぜ」・・・。

近年、美術史の中ではオリエンタリズムとの関係が紐解かれつつあると思いますが・・・???。

それを承知のうえで、参考として私達は読み、話を聞くことを致さなければならないのではないでしょうか。

美術史が前に進んで行かない理由の一つに、固定した概念を基礎、基盤として出発していることにあると考えます。

 

次の例題からも理解を得ることが出来ると思います。

※その一つに、江戸美術が幕末・明治に断絶致します。

幕府の衰退、江戸美術の後半を担ってきた町民文化のエリートがなぜ明治に引き継がなかったのか。

未だに謎です。

 

※もう一つ例をあげれば「劉生」です。

「劉生」は中年から晩年にかけて初期の印象派以降の近代絵画の影響から脱して、デューラー、そうして宋元画に影響を受けます。

多くの書物は劉生一人のこととしてきたことは「なぜ」か・・・。

確かに現象はそうだと私も思いますが「なぜ」は解決されません。

近代化の中で醸成され絵画感そのものへの反省「なぜ」が起りデューラー、宋元画に近づいていったかを考えなければ「劉生」を理解したとは、ならないのではないでしょうか。

「劉生」は「なぜ」です。

まだ、その文献には出合っていません。

 

先日のブログにも書きましたが、一人の、一冊のではなくその語り部、書物から「なぜ」を見出すことが大切に思えてなりません。

美術史に「なぜ」を発見致しましょう。

 

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2017年8月4日 「なぜ」に意味を持たせる。

写真表現には「なぜ」と自分自身に問いかけることが大切に思われる。

「なぜ」を大切にし意味を持たせることが、必ず表層されたものに現れると信じます。

自身のテーマに対しても「なぜ」

被写体に対しても「なぜ」・「なぜ」

と、疑問符をなぎかけなければ表層に現れたものは単に「写した」に過ぎないからです。

意味のない作品になりかねません。

 

今、自身は「なぜ」カメラを持っているのか「なぜ」。

今、この被写体にレンズを向けているのは「なぜ」。

今、このテーマと向き合いたいのは「なぜ」。

自身の全ての行動、思考に「なぜ」・「なぜ」・「なぜ」が必要な気がしてならない。

 

そうしなければ可視化された作品には意味を持たずに。最悪の場合、モノマネになったり、アイディア倒れになってしまう恐れが生じると考えられるからです。

「なぜ」・「なぜ」・「なぜ」と多ければ多い程、深ければ深い程、揺るぎない規範が生まれ、指針が明確化されると思います。

 

被写体に対しても「なぜ」と思ったとき被写体に対しての深層心理を探りたくなるはずです。

その上で、自分は何故カメラを持っているのか「なぜ」と、立ち止まって考えたとき、このカメラで良いのか、このフイルムで良いのかと様々なことまで思考が始るはずです。

その上で自身のスタイルが自然と決まると考えます。

 

始めからスタイルありきでは、モノマネになったり、アイディアだけの作品に成りかねません。

 

また「なぜ」に意味を持たせることは自身の意志や思考、作品にも検証することに繋がると思います。

写真装置は便利な表現手段です。

シャッターを押せば何がしが写ってしまう。

 

今年はアラーキーさんが特に注目され、数多くの場所で写真展が行われている。

賛否の声が私の処へも届く。

私はアラーキーさんの作品に付いてその賛否の声があることが、とても大切だと思っている。

一つ、残念なのは作品ではなく展示方法の方が多いこと。

無論、作品についての賛否もありますが展示方法に比べると少ない。

 

賛否の言葉を聞き私なりに一つ思いついたことがあります。

アラーキーさんの作品には「なぜ」・「なぜ」・「なぜ」が潜んでいるのではないかと思う様になったことです。

カメラを持ったとき、被写体と対峙したとき、コンタクトシートを見たとき、選びだされた作品にも「なぜ」・「なぜ」・「なぜ」が。

そう思えばなんとなく理解が深まる様な気が致します。

 

本日、オペラシティーのアラーキーさん作品展を見に行こう!!。

アラーキーさんは「なぜ」・「なぜ」・「なぜ」と問いかけ、君たちにこの「なぜ」が解るかいと言っているかも知れない。

何か新しいことが発見出来るかも知れない。

「なぜ」

「なぜ」・「なぜ」!!。

 

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2017年8月3日 私と写真

写真は高橋にとって何だろうと時々思うことがある。

中学生時代、始めて持ったカメラは父親の蛇腹式のオリンパスのカメラ。

型番は覚えていない。

逆光の写真ばかりを撮っていた。

理由は解らないが、ただ人のモノマネをしたくなかったことだけは覚えている。

画家であった父親の影響だと思う。

 

高校に入り1年生のとき、写真部を作ったのは私。

校長先生に直談判をしてお願いした。

顧問には科学の優しい先生になって戴いた。

昔の昔は(高校生時代)結構、県展などにも入賞した。

今日はまったくダメ。

まったくダメ。

 

写すことと、見ることの違いが嫌なほど解る。

写真て何だろうと・・・。

その時々で思いも、感じ方も変わる。

しかし、写真はいつも面白かったし、今も面白い。

2020年まで継続をさせて戴くにあたり「写真」は面白いということに尽きるのだと思う。

写真は人を幸せにしたり、知らない世界へ誘ってくれる。

インターネットがない時代、写真集や雑誌を見て海外の人にも生活にも、町並みに憧れた。

1枚の写真、写真ハガキは素晴らしい意志の伝達手段ともなってくれた。

長い文章なんかよりも、心が通じ合えた。

(スマートフォンでは今は現実の世界が瞬時に、もうすこし意志の伝達には時間があればと思う。)

 

写真は他のアートよりも身近なものだと思っている。

肩肘を貼らなくても、素直に向き合える。

自身の考えを掘り起こし可視化も出来る。

何時でも写真機は持ち歩ける。

 

何だか今日のブログは書ききれないままに終わりました。

 

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2017年8月2日 一夜明けて・・・。

2017年8月1日が近づくにつれ、緊張の日が増していました。

昨夜はホットする気持と、これからだと身が引き締まる思いの両方が交差し22時前には床につきました。

 

同居致している娘に2020年まで続けることになったと伝えました。

娘はエッ!!。と。

次の瞬間、どうしてと!!。

様々なことを考慮してのことと話しを致しました。

お父さんの人生だから好きにすればと・・・。

なんとも連れない娘の一言と思い、寝室に入りました。

 

娘がノックをし私の寝室に、熱いおしぼりと冷たい水を持って来たくれて、お父さんは続けると思って居たよと。

お父さん、身体を大切にねと言って寝室を出て行きました。

先ほど、連れない娘だなと思ったことを反省致した次第です。

 

今日は爽やかに気持です。

2018年度の写真展の方々は既に全て決まっています。

2019年に向かって新鮮な気持で思考して参ります。

冬青社、ギャラリー冬青でしか出来ないことがあるに違いないと思うばかりです。

写真のことやアートのことが自由に語り合えるサロンなどを開きたいとも思って居ます。

 

写真作品集も現在4冊を進行中と一冊が準備中です。

2冊がモノクロ、2冊がカラーです。

全て年内に発行致します。

2019年度は白紙です。

2019年度どのような写真作品集と関われるのかと希望は脹らみます。

 

それにしても、ADの杉山幸次さんの定年再々延期の件、凸版印刷さんの決断をとても心配しています。

 

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