2020年2月21日 NOテキスト化の話・・・。

あるトークショーに出て「NO」テキスト化の話が出た。

東京都写真美術館でも「NO」テキストで展示が行われるようになっている。

トークショーではあたかも新しいスタイル、表現手段だと評価し賛美が送られていた。

 

確かに最近、増えてきたと思われるがまだ少数派である。

この手段は行き詰まりをみせ、続かないと私は思う。

トークショーの話を聞きながらそう思った・・・。

 

「NO」テキスト化は観る側に予見を与えずに自由に観て、感じて欲しいとの趣旨らしい。

この趣向は今、始った流行ではない。

1975年前後から言われ続けられた言葉がある。

それは「写真は観れば解る」。との言葉。

テキストもなければ作家も説明しない。

会場で作家に質問しても「観れば解る」。とのことだけ。

私は声をだして「観ても解らない」と常に言い続けてきている一人です。

「写真は観ても解らない」と大声を出して言い続けてきた一人です。

 

作品は意志の伝達だと理解している。

ある時には作家に成り代わり評論家、批評家、美術史家、キュレーター、学芸員、マスコミなどなどが成り代わり作家の作品の賛否も含め意志の伝達を行っている。

それによりも、観る側の私たちがイメージを脹らましたり、縮まさせられりとしている。

最終的には当然、観る側に賛否の評価を委ねられることになるのだが・・・。

 

「NO」テキスト化で思うことは、観る側の私たちはそれ程、無頓着に芸術を観ているのではない。

・より作家のことを知りたい。

・より作品のことを知りたい。

そこから自身の新たなイメージを思い描き広げたいと思いながら観ているのだ。

さらには作家などの(巨匠・無名)のテキストに惑わされることはなく自由に観ている。

出来れば正しく誘導して欲しいとの相反する心で、眼で心で観ていることを表現者は理解することが大切に思ってなりません。

特に写真表現の「NO」テキスト化には大きな疑問をもっている。

この小さな流れは「麻疹」のように一過性で終わると思う。

45年間以上、語られてきた「写真は観れば解る」。との言葉。

思い出して欲しい。

展覧会場やギャラリーを出たとき寒々しい気持を幾度も経験をしたことは私ひとりだけなのか・・・。

 

写真家・山下恒夫氏の写真展のテキストはとても丁寧で、解りやすく、思いを込めて私たちに語りかけたくれている。

幾度も会場でテキストを読み、涙している方々を拝見した。

表現は感動だと思う。

岡本太郎「芸術は爆発だ!!」を思い出す。

写真に想いの言葉を添えて下さい。

 

写真表現にはテキストは必要です。

 

※作家・フォトグラファーハル氏 在廊日  26日〜29日 13時〜19時

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 


2020年2月20日 選ばれし作品を考査する・・・。

選ばれしアートシーンに残る作品を考査すると、ほぼ共通して言えることがある。

・作品力がある。

・時代を反映している。

・時代の先駆けである。

・テーマ性が明確である。

・スタイルが独創的である。

・スタイルが確立されている。

・技法、技術が確かである。

などなど、一般的にはあげられると思いますが・・・。

実は上記以外に表現者が観たくない、考えたくないもない凄まじい光景が昔から繰り広げられて来ました。

 

本日のブログは作品力のことではなく、作家の行動、姿勢に注視したいと思います。

過去のアートシーンに残るほどの作家ですら自らが表現の場を懸命に探し求めたり、コレクターと呼ばれる方々に売り込みが凄い。

家に富豪と呼ばれる方々を招き、日常ではあり得ない程の料理やお酒を振る舞い、華やかなホームパーティーを開いている。

以前に「フェルメール」の映画を観たことがある。

絵具も買えないほどの困窮生活の中の「フェルメール」は、スポンサーを招き豪華なホームパーティーを開き、まだ模索中のアイディアを説明しているシーンがあった。

スポンサーが何を求めているのかを探っているシーンもあったと記憶している。

説得をし、ときには逸脱だとも思えるおもてなしまでをしている。

 

特に日本人作家の若手(40代〜60代)が言われることが多い。

不遇の時代と。

確かにこの年代の方々は環境的にもマーケット的にも不遇の時代でした。

しかし、しかし大バブル時代を体験したでしょう・・・と。

 

本日のブログの本題に入ります。

要するに選ばれる側(作家・作品)と選ばれない側(作家・作品)との境は、表現者の自らの努力に、責任に、大きくのしかかっていることを理解して欲しいと強く願います。

自身の作品が素晴らしいのにと思い、スポンサーを見つけない、努力をしない表現者は、何時迄も選ばれない側(作家・作品)の領域にいることは必然的だと思われます。

表現者にとって自身の作品が素晴らしいこと当然のことです。

当たり前のことです。

 

誰かが首根っこを掴み拾い上げてくれることなど皆無だと考えます。

表現者は自身の作品制作の努力以上にスポンサーを見つける努力を致さねばならないと考えます。

「リチウムイオン電池」を開発に貢献された吉野彰博士(ノーベル化学賞)でさえ、この電池を使用してもらうため、多くの企業に足を

運び自ら営業をされたとのこと。

 

「棚からぼたもち」はあり得ないと言うことです。

選ばれる側(作家・作品)と選ばれない側(作家・作品)との境は作家自らの努力と考え方、次第と考えます。

自らが表現の場を求めることが大切です。

自らがスポンサーを探すことが大切です。

自らがコマーシャルギャラリーを探すことが大切です。

 

2021年度ギャラリー冬青を公募式に切り替えましたのも作家の方々の意欲を体感したかったからです。

不思議なことに海外のギャラリーや作家の方々が多くなっていることに戸惑っています。

日本人の作家の方々は何処に・・・???。

 

※作家・フォトグラファーハル氏 在廊日  26日〜29日 13時〜19時

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 


2020年2月19日 アートは時代の要請に基づき必然的に生まれてくる・・・。

アートは時代の要請に基づき必然的に生まれてくる。

確かにアートシーンを紐解けば良く理解できます。

時代とともに生まれ育てられてきたアート。

 

しかしながら、そんな遠くの話ではなく本日のブログの高橋の真意は・・・。

今日の今の話です。

貴方の表現こそが時代の要請に基づき生まれて来たのですよと呼びかけたいのです。

表現者は全ての者において、経験値の浅さ、深さ、短さ、長さに関係なく時代の流れの要請に基づき現れた来き、生まれてきたものだと信じます。

誰しもが持つ権利だと理解致します。

時の申し子とでも言えば良いのでしょうか。

お一人、お一人が時の申し子的、存在なのです。

 

表現者は、私は時代の申し子として、要請にもとずき表現をしているのだと意識することが大切に思えてなりません。

この様な言葉を聞くことがあります。

「貴方はこの世の中に必要とされているから、生命を受け生まれ、生かされているのです」と。

この言葉はニアンスが多少違えど仏様を始め様々な宗教、一般的にも励ましの言葉として使われた来ました。

 

アートは時代の要請に基づき必然的に生まれてくる表現者と表現スタイル。

 

大げさなと、考える表現者がいたとしたら・・・。

本当の真意をお尋ねしたくなります。

何のために表現者なのですか。

何のために表現をしているのですかと。

アートは時代の要請に基づき必然的に生まれてくるといことを意識し認識することにおいて、自ずと自身の表現者の姿勢、方向性が定まるのではないてしょうか。

それは時代とシンクロしながら生まれてくるのだと考えられます。

 

そこまで思わなくてもと言われる方がいるとしたら、表現者としての立場、表現の場は失います。

繰り返します。

表現者の作品力は、経験値の浅さ、深さ、短さ、長さに関係なく時代の流れの要請に基づき現れた来た、来るものだと信じます。

過去のアートシーンを見れば一目瞭然です。

時代とともに生まれてくるアート群。

まさに時の申し子です。

自身がその波にのるか。

自身が波を起こすか。

は、自身の意識と目的の設定、次第だと考えます。

 

表現者の誰しもがもち得る権利。

無意識の内に放棄していないでしょうか。

私の表現がこそが時代の要請に基づき、必然的に生まれて来たのだと理解し意識することが大切に思えてなりません。

その権利を保有していることを、強く自覚することが大切に思えてなりません。

皆、等しく。

 

その上で・・・。

「モチーフ=テーマ・形式律=技術力・内容律=コンセプト」の研磨、努力、精進が欠かせないことを付け加えさせて戴きます。

その上で、自身のアートは時代の要請に基づき必然的に生まれてきたものだと信じて下さい。

意識しプライドを持つことが大切に思えてなりません。

 

私は素直に受け入れたいと思います。

 

※作家・フォトグラファーハル氏 在廊日  26日〜29日 13時〜19時

 

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2020年2月18日 アートの所有権利について・・・。

ある本を読んでいたら面白いことを書かれていた。

アートは誰の者か・・・。

アートはコレクションをした方(個人・団体・美術館などんど)ものと思っていた。

これ以外に採取、発掘、削奪、強奪(戦争、紛争による)窃盗まで含まれると個人、団体が保有して来たことと思っていた。

パリ7区にあるエッフェル塔は(現在はパリ市が管理、保有している)が1909年まで入場料はエッフェル塔の設計者、エッフェル自身の収入となっていた。

エッフェル塔だって個人所有に出来ることになる。

岐阜県にある国宝・犬山城だって2004年まで個人所有であった。

 

しかし、この本の面白いと思ったことは、これら全ての所有者は一時の管理者に過ぎないと言い切っていることにある。

その根拠は「人が他界したあともアートは何世紀も渡り残り続け、系譜されるとのこと」。

アートのコレクションはコレクターの一時、一時代の管理者に過ぎないと語りかけている。

 

アートは時代を超えて人間(コレクター)が想像している以上に受け継がれていく、来た。

そこで問題なのは収集家によるコレクションは一時、一時代の管理者に過ぎないのだから保存、目録の義務、責務が負わされていることを認識すべきだと・・・。

 

本を読み終えたときなるほどと思った。

私のコレクションなどアートシーンに残る作品や市場的に高価なものはないが、その中でも希少性や歴史的にはと思われる作品(書物も含めて)も多少では保有している。

私自身が一管理者、一時の管理者として認識を致さねばと思った。

 

対価を払い保有したアート作品は自個人のものと思っていたが、後世に伝える残す一時の管理者であることを自覚させられた。

一時の管理者は「アートは残り続ける」ことを理解した。

一時の管理者は「アートは残り続けさせねばならない」と言うことを意識した。

 

極端な例だがバーミヤン渓谷にあった磨崖仏、2001年2月26 日にターリバーンはイスラムの偶像崇拝禁止の規定に反しているとしてバーミヤンの 大仏を破壊することを宣言し、破壊された。

「アートコレクターは一時の一時代の管理者に過ぎないと」との考えは「公、団体、個人」に留まらず意識することがとても大切に思えた。

日本でも明治、大正時代、更には大戦後、神社仏閣の至宝に留まらず工芸品や芸術作品が破壊、喪失、紛失、消失、海外へと・・・。

アートは個人の考えや、団体の考え、宗教の違い、思想の違い、国家の覇権に影響されることなく後世に残す義務が全ての私たちに付託されていると大げさだが真に思った。

 

最後に表現者の方々は多くのコレクターの方々、団体、公的機関に収集して戴くことを目標と致さねば作品の表現の向上はあり得ないとも思った。

後世に残ることはないと自覚して欲しい。

アートシーンには残り得ない。

と、強く思います。

また、受け入れる側の私たちは「一時、一時代の管理者に過ぎない」ことを意識、認識したい。

作品を「一時の一時代の管理者」として大切にしたい。

 

※作家・フォトグラファーハル氏 在廊日  26日〜29日 13時〜19時

 

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2020年2月14日 現代アートて何・・・???。

現代アートて何・・・???。

と、いつも考えさせられる。

 

1.私たちは何か解らないアートを見たとき・・・。

2.私たちに新しきものと思えるアートを見せられたりとしたとき・・・。

3.私たちは理解不明のアートを見たとき・・・。

4.私たちに意味不明のアートを見せられたりとしたとき・・・。

5.などなど・・・。

観る側の私たちは、現代アートとして無意識の内に現代アートの枠の中に入れ安心してしまっているのではあるまいか。

語る側(作家・評論家・批評家・学芸員などなど)も現代アートの枠を示さず、現代アートとして語り片付けてしまっている。

共に(観る側・語る)現代アートと聞き、語れば安心し解決したかのように感じ、無意識の内に納得してしまっているのではないか。

 

現代アートの父と言われるマルセル・デュシャン「(フランス生まれ:1887年7月28日-1968年10月2日)は、フランス生まれ、晩年にアメリカに帰化した画家、彫刻家、チェスプレイヤー。」

 

現代アートの語源が誕生して100年は過ぎる。

アートシーン史上これほど残っている(現代アート)言葉はない。

具象派、印象派、キュビスム、日本で生まれたもの派などなど、数かぞえられないぐらい誕生している。

 

現代アートとはとても便利な言葉。

誰一人、現代アートの概念をしめした者はいない。

確かな書物もない。

それなのに現代アートとしての言葉を余りにも素直に受け入れてしまってしまっているのではなかろうか。

現代アートの言葉に頼りすぎていないか。

 

このような無秩序と思える現代アート。

恐らく、現代アートの父デュシャン氏も喜ぶと言うより怒りさえ覚えているのではと高橋は推測致します。

デュシャン氏もこの現代アートの広がりを驚いているのではと・・・。

私たちも「現代アート」の言葉に馴らされることなく自身の好きな作品、現代アートを求めて行きたい。

 

最後に私の先輩が現代アートについてこう語っている。

「現代アートはバカバカしいほど面白い」

なんとなくうなずいてしまう。

 

※作家・フォトグラファーハル氏 在廊日 14日・15日 13時〜19時

                                      26日〜29日 13時〜19時

 

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2020年2月13日 写真表現の記録性・・・。

先日あるトークショーに参列させて戴いた。

美術館、博物館の違いの役割りの話が出た・・・。

東京都写真美術館は博物館としての役割りをもちながらも、根本的には美術館としての立つ位置の方が強いとのことが理解できた。

(多少問題があると思いながら、話をお聞きした、博物館・美術館の違いは後日でも・・・)

 

そのおり写真の記録性についてのディスカッションがパネラーのお二人で行われた。

簡単に言えば・・・。

1839年、写真は記録をすることから始まり、そこを根拠、起源にしているためアートとは多少異なった見方をされてしまう。

ディスカッションの内容を簡単に言えば「記録写真」と「表現(アート)写真」は違うということらしい。

トークショーを聞きながら「おや、おや、おや」と思った。

ルネッサンス時代、美術表現は多くは聖書に題材を求め自身のイメージを脹らました。

しかしそのなかでも「モナリザ」を含め被写体のイメージは現存していた。

芸術は印象派を含め以前、以後のキュビスムはじめとする様々な表現方法、手段が生まれてきた。

何時の時代もアートはモチーフの写実から始まり、いかにしてより自分らしく自身の表現、自身の技法、手段で表現するかと言うことに苦しみ悩んできた歴史を持ついると理解している。

アートから記録性を排除することはアートそのものを排除することに成りかねない。

忠実に被写体と対峙し、忠実に被写体を理解し、被写体を謙虚に受け入れ、己の何を表現したいのかということではないかと思っいる。

 

特に写真表現の最も強み、面白きところは記録性、複製芸術が、他のアートにない手段だだと思う。

その記録性、複製性を写真から排除することは写真への某毒に繋がる危険性を含んでいると考えます。

写真は機器を介して薄い紙の上に可視化される。

その機器、可視化される紙すら省かれた作品を写真表現だと写真の枠の中に納めようとする行為はどうかなと疑問をもった。

写真表現の枠が広がったと・・・。

本当に広がったのであろうか・・・。

何もかもを写真表現の枠のなかに取り入れなくてもと思った・・・。

と、考えさせられる。

写真表現ではなく別のジャンルの表現手段と思えるのは高橋だけの古さの問題なのか・・・。

 

写真表現は機器を介して薄い紙の上に可視化される表現だからこそ、自身の思い、技術、方法、手段を駆使するかに掛かっている。

実写からがその一歩の始まりたと思っている。

 

※作家・フォトグラファーハル氏 在廊日 13日 17時〜

                    14日・15日 13時〜19時

                                      26日〜29日 13時〜19時

 

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2020年2月5日  私たちがアーティストに求めるもの・・・。

私たちが作家に求めるものは、人それぞれに違うと思われますが・・・。

こと、私のことを申し上げれば下記のことだと理解しています。

1.家に書斎に飾りたい。

2.若手(写真年齢)の写真家を応援させて戴きたい。

3.将来性のある写真家の方々の一助になればと思ってます。

4.日々努力されている写真家。

5.続けられる意志が明快な写真家。

6.努力に努力を続けていられる作家。

7.作家、その人が好きである。

8.運命的に希少性の高い作品と偶然に出会ったときは無理をしても求めて参りました。

※この様なことを思い、考え作品を購入させて戴いております。

 

私が作品を購入する動機、切っ掛けになったことは下記の四つだと思われます。

1.作品を求めなければその作家の作風は、心は理解出来ないと思ったからです。

2.作品を求めさせて戴くことは、自身が作品を観る心構えや見方が全く違ってくるに違いないと・・・。

3.その場にいるなんとも言えない緊張感が欲しい。

4.好きな、応援したくなる作家を知りたい、出会いたい、持ちたいとの思い・・・。

以上のことは以前にいました芸術系の出版社に居たころに、職業柄とはいえ身に着いたものだと理解を致しております。

 

作品を求めさせて戴く喜び、我が家で展示する喜び、観る喜び、作品を観て想像する喜びを味会っております。

微かな糸ですが、どこか作家に繋がっているような錯覚すら覚えるときがあります。

勝手にですが・・・。・・・。

とても至福のときです。

 

無論、失敗や嫌な思いも沢山してまいりました。

・作家活動を止められた方や・・・。

・7.8年前になると思います。

 銀座・松屋デパート裏で、長くギャラリーを続けていられるオープニングパーティーでのことです。

 どうしてか、お客は私一人で作家の方と二人でした。

 帰るに帰られず、暫くギャラリーにいました。

 一時間位はギャラリーにいたと思います。

 作家の方も私に話しかけるわけでもなく、一人ワインを静かに飲んでいました。

 オーナーは忙しく電話などをされていたと記憶しています。

 仕方なく、それほど高くない作品(それでも20万円近くはしたと思います)1点求めました。

 無論、オーナーの方には感謝されましたが、何故か作家の方はとはその後も一言の会話もありませんでしで。

 後日、ギャラリーから送られて来た作品は7.8年間、梱包されたままです。

 観たくない、飾りたくない思いからです。

帰宅途中、寂しい気持になったことは事実です。

 

作家の方々はコレクターの方々に作品をお渡ししたいとの思い、意志は当然ですが、自身の考えや心を伝えて、理解して戴きたいとの努力が必要だと考えます。そのときに強く思いました。

ギャラリーは作家の方がの考えや思いをお伝えすることは出来ますが、作品の中に作家の思いを込めることは出来ません。

作家の方々は作品に思いを込めて、作品に思いを乗せて届けることが大切だと考えます。

作家の方々の思いが作品から溢れ出している信じています。

作家の方々の生の言葉はとても必要です。

 

作品を見たとき互いに引き合うものを幾度も体感して参りました。

まだ結論は見出せていません・・・。・・・。・・・。

 

■明日6日・7日は鶴巻育子写真作品集の印刷立ち会いのための両日と、様々な仕事により12日までブログは休ませて戴きます。

 

※作家・フォトグラファーハル氏 在廊日 4日〜15日 13時〜19時

                                    26日〜29日 13時〜19時

ギャラリーに在廊されます。

 

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2020年2月4日 フォトグラファーハル写真展「TIIDA」本日から。

フォトグラファーハル写真展「TIIDA」本日から始りました。

「TIIDA」(ティーダ)とは沖縄の言葉。

太陽がギラギラと照りつけることを現す言葉とのこと。

春・秋・冬の太陽には「TIIDA」(ティーダ)とは呼ばないとのこと。

沖縄出身でファションモデルでもあるハル氏の奥様、洋子さんに教えて戴いた。

 

作品は2019年3月に新婚旅行にキューバに出立。

キューバで撮られた作品33点を昨日、ハル氏の奥様と共に展示をさせて戴いた。

「額」は昨年、キュバーへ仕事に赴いた折、材木商より直接入手し日本に持ち帰り作家自らが約2が月半かけて作り上げた作品。

キューバ材の「額」には臍(ほぞ)や簪(かんざし)が組み込まれ、作家の苦心とごだわりが十分に伝わってくる。

 

更に「額」は「無垢の木」のため、一点、一点が微妙に違う。

表情も違えば、形も姿も違う。

その違いがとても良い、面白い。

 

キューバでの洋子さんが撮影のときに漏らした言葉。

キューバの太陽の光はどこか古里の沖縄を感じさせると・・・。

似ていると・・・。

 

さらに洋子さんは語る。

新婚旅行に行ったというより、撮影旅行でしたと。

フォトグラファーハル氏らいしと思った。

集中すると他のことなど一切気にしない、気にならない姿が目に浮かんで来た。

そのことが高橋をどれほど悩ましているのかはハル氏は知るよしもない・・・。

撮影の日々が続くなかファションモデルでもある洋子さんは、写真家でもあるフォトグラファーハル氏に全てを委ね、ほとんど自らホーズを作ることがなかったと・・・。

 

キューバでの新婚旅行での撮影の日々が終わりに、本当の休暇を、新婚旅行を楽しむためにと、洋子さんのお疲れ様会のために立ち寄ったアメリカ・フロリダの海岸。

のはずが・・・。・・・。

洋子さんはハル氏のどこか物足りない顔を観て、感じとり再び自ら撮影を望まれたとのこと。

今回の写真展には残念ながら展示には外させて戴いた。

 

「TIIDA」のギラギラとして光感が全く違う。

それと鬼才感が足りないと感じさせて戴いた。

写真は不思議な力を、オーラを放すことを私も再び学んだ。

「TIIDA」作品は洋子さんが写真表現者であるフォトグラファーハル氏に全てを委ねていることが素晴らしい。

カメラを持ったフォトグラファーハルはとても我がままであり、自分勝手な写真表現者だ。

15年間近く付き合っている、私はどれほど我慢させられて来ていることか・・・。

実はそなん、フォトグラファーハル氏が私は大好きだ!!。

 

「作品」+「額」はタイトル、テーマでもある「TIIDA」に素晴らしくマッチングをして作品をより際立たせている。

 

そう言えば荒木さん・深瀬さんの奥様も「洋子」さん。

素晴らしい写真家の奥様には「洋子」さんが多いのかな・・・。・・・。

 

※作家・フォトグラファーハル氏 在廊日 4日〜15日 11時〜19時

                                    26日〜29日 11時〜19時

ギャラリーに在廊されます。

 

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2020年1月31日 信頼と信任。

自身の作品に信頼ではなく、信任を与えることが大切。

信頼ではなく信任することが大切だと日頃から思い、なかなか実行ができなく悩んでいます。

 

例えば、身近なことていえば2月3日かから始る、フォトグラファハル氏のギャラリー冬青での写真展。

その写真展の作品の作品について、昨年の9月より幾度も拝見しセレクトを共にさせて戴いてきている。

その作品数3000枚近く。

その中から30作品を選び出す。

見たも見たものだと我ながらに思う。

繰り返し、繰り返し意見交換をしながら。

しかし、先週も2.3度は拝見することになった。

会期の始まりが2月3日と決まっているのにも関わらず・・・。

 

人は通常の日々であれは信頼を寄せることが出来るのだが・・・。

何か多少なりとも気になることや、方向性の違いや見聞のズレ、見逃しはないかなど、心配心を残しながらも信頼しつつも、前に進めない何かがある。

信頼しているのに、信頼したいのだがの繰り返し。

完全に信任までは至っていないのだ。

 

真の信頼とは信任すること、最後には作品を信じて任せること。

作品に全てを託す事。

全ての責任を託すこと。

信任は責任の委譲である。

 

こと、作品であれはテーマとの関係性において信頼をしているからこそ、表現者は被写体へのアプローチも精神的、物理的にも可能になる。

様々な技術や経験を駆使し、その結果として信任にあたいする作品が可視化され生まれる。

表現者は自身の作品に信頼ではなく、信任出来なくては人の前に発表は出来ないはず・・・。

ギャラリーのキュレーターや編集者は作家が作品に対しての信頼から信任(観て戴く全ての人々に)までの、プロセスのお手伝いをしているに過ぎない。

 

海外に行き、美術館のキュレーターの方やギャラリーのオナー、評論家やコレクターの方々から良く聞く言葉、話。

写真家は良き、キュレーター・編集者を見つけなさいと・・・。

表現者は自身の作品に対して信頼から信任に至までの、良きパートナー(ギュレター・編集者)を持つことが大切。

 

自身の作品には「信任」を与え発表したいものです。

 

※作家・渡部さとる氏 本日(金曜日) 11時〜19時

           明日(土曜日) 15時〜19時

ギャラリーに在廊されます。

 

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2020年1月30日 撮れないときも・・・。

人は安定を望んでいるのだが安定し一つの処に留まることは出来ない。

人は柱時計の振り子のように左に行ったり、右に行ったり常に心は揺れ動いている。

柱時計の振り子は左に振れた(苦しい日時)分だけ右に降れる。(楽しい日時)

物理的に。

と言うことは左側に振れた(苦しい日時)時間が長ければ長いほど、右側に降れ(楽しい日時)を長く過ごせることになる。

 

人は前向きのときには、少々無理思えることなどでも可能にしてしまう力が沸き起こってくる。

前向きになれないときこそ一歩、前に勇気を持ってと、自分自身に言い聞かせることが大切に思えます。

 

写真表現は苦しいときにも、如何なるときにも、一枚シャッターを切り続けることが大切。

不思議である。

私は、ありがたいことに国内外の多くの作家の方々の作品を観るチャンスに恵まれてきた。

私自身、プロ・アマと区別することき嫌いだが敢えて・・・。

プロ・アマ関係無く、シャッターを切り続ける人と切っていない人では明らかである。

先ずは・・・。

・力量感が全く違って見える。(引力が違う)

・被写体の関係性が違って見える。(浅い・深い)

・自身のテーマを理解度が違って見える。(低い・高い)

などなど・・・。

本当に不思議。

無名・有名、プロ・アマ関係無く圧力感が違って見える。

その結果として、観る側の私たちの説得力が増している。

 

楽しいときは誰だってシャッターは切れる。

表現者はシャッターが切れない時の過ごし方が大切たと思う。

言い訳を続けていてもシャッターが切れない。

フイルムが印画紙が溶液類が高く成り過ぎと聞く・・・。

だからこそ、一枚のフイルムに一回のシャッターに、思いを込めてと申し上げたくなる。

 

以前に土田ヒロミさんの「俗神」のコンタクトシートを見せて戴いたことがある。

シャッターを切る回数が実に少ない。

少ないカットは1枚。

多くても3枚。

被写体の方々の息はく音が、小さなコンタクトシートの一コマ一コマから聞こえて来るようであった。

その体感は今でも忘れられない。

 

御年、80歳・・・。

今なお、シャッターを切り続けられる日々。

目標ではなく、目的が定まっているからこそファインダーを覗き続けれているのだと思う。

(目標・目的の違いは何れブログにて書かせて戴きます。)

 

続けること・・・。

 

※作家在廊日 火曜日〜金曜日 11時より19時

       土曜日     15時〜19時

 

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