2018年7月20日 「写真と言葉」

一昔「写真は観れば解る」と言う言葉、概念がまかり通っていた。

今でも「写真は観れば解る」と語る写真家がいることにとても寂しさを覚える。

しかし最近、私の概念が変わりつつある。

 

写真には言葉が必要なのか・・・。・・・と。

基本的には自身の作品について語られることが出来なければ海外では通用しない。

作品以上のことを言語化することが大切。

海外の作家は見ぶり手振りを含めて作品のことについて語る。

語ることが出来る。

このときはコミニュケーションではなくリベートだと体験したことが度々ある。

相手を洗脳するぐらいの言葉で迫ってくる。

 

しかし最近、私の概念が変わりつつあると書いたのは、観る側の権利として言語を超えた作品に出合いたいと思うからだ。

厚さ0.5个睨たない表層に現れた被写体は作家力により、観る側を未知なる想像の世界へと誘ってくれると信じるからだ。

そんな作品と出合ったときの喜びは何ごとよりも代え難い。

ギャラリーや美術館にいくとき、そんな作品と出合えることを想像するだけでもワクワクとする。

その反動も幾度も体験してきたが・・・。

 

作家の義務として「写真は観れば解る」と片付けるのはあまりにも無責任の様に思えてならない。

写真は観ても解らないのが現実であることを表現者は理解すべきだと考える。

作品はコミニュケーション。

表現者の言語はリベートを超えたコミニュケーションが必要だと思う。

表現者の義務としてテーマについての言語を持たなくてはならない。

表現者の義務として説明責任があることを理解すべきである。

自ら積極的にかた語りかけることが求められる。

 

今、写真集でテキストがない写真集が国内外で多くなっていると言われるが、それ程多くはなっていない。

昔から思えば多少は増えているような気もしているが・・・。

私から言えば無責任だと思っている。

私の手元にも何冊かの写真集があるが一度、目をとおしたら終わり。

二度と書棚から出る事はない。

どこか薄っぺらに思えてしかたがない。

 

テキストやステートメントを読むことにより、より作品の中へ広く、奥へと引き込まれていく。

テキストやステートメントは作品を軽減するものではない。

 

冬青社の写真作品集はテキストとステートメントを充実する。

今日のブログを書き終えてヤッパリ「写真には言葉が必要」

 

でも、観る側の権利として言葉を超えた作品に出合いたいと思っていることも事実。

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 

 

 

 


2018年7月19日  職業としての専門写真家の優位性が失われつつある・・・。

私はプロの写真家、アマチュア写真家と区別することは嫌いだ。

しいてプロ・アマと区別すれば作品に対しての執着度、粘着度、継続性と思われるがそれすらあやふやだと思っている。

レジタルカメラ、周辺機器、搭載されているソフトの進化は「 職業としての専門写真家の優位性が失われつつある」ことは事実だと思う。

「職業写真家(カメラマン)」の領域では既に起っている。

 

昔言われた「職業写真家(カメラマン)」と「専門写真家」とは区別したいと思っている。

「専門写真家」はあくまで作品を作り続ける、写真作品集を作り続ける。

一過性ものではない。

昨日、渡部さとるさんがギャラリー冬青に遊びに来て下さった。

おもむろにアイホンを取り出し1枚のポートレート写真を開き、泣いたり、笑ったり、目を大きくしたり、細くしたり、つり上げたり、下げたり、美人顔にしたり指一本でいか様にも変化出来ることを実演をして下さった。

 

驚くべき!!。

進化。

今や写真学校を含めて職業としてのポジションが浸食されるばかりではなく、失われつつあるのではないかと思わざるを得ない。

 

昔は「ライカ一台で家が一軒買えた」と言われた時代。

写真機そのものが高価で昔の写真家は裕福な家庭な子供が多かった。

この時代は職業として、趣味としても技術の修錬、修得が必要であったことは言うまでもない。

 

私たちは昔の写真家の作品(内田九一・上野彦馬・林忠彦・・・)に何かを感じ引かれるのはなぜか・・・。

それは「品格」ではなかろうかと最近、益々思うようになっている。

「品格」や「オーラ」は作家そのものが持つ人間性、人格、内容、技術、美意識、着眼点などなどと思っているが「AI」が進めばこの領域すら解らなくなるかも知れない。

 

しかし、現在、今日、作品の「品格」や「オーラ」の優位性は「専門写真家」の領域だと思っている。

作品には益々「品格」や「オーラ」を「専門写真家」は要求されるのではないかと思われる。

 

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2018年7月18日 昨日、田中長徳先生と8時間・・・。

田中長徳さんの「東京ニコン日記」(撮影年1960年代)の作品444枚にサインを入れて戴いた。

始まりが14時、終わったのが22時。

8時間あまり、多少の雑談の時間を交えながら、とても私にとって有意義な時間であった。

 

田中長徳さんの真摯な姿勢。

それは生き方にも。

写真に対してはもっと真摯であられる。

 

プリントの裏のサインは最低でも「タイトル」「撮影年」「制作年」「作家名」「エディション」5個の記名を致さねばならない。

延々と続くサインの時間。

水分を十分にとりながらサインは進められた。

後半、雑談の時間も多くなり、また気合いを入れ直してサインを作品に入れ始められる。

 

驚かされたのは田中長徳さんの写真への思い、一貫して変わらぬ真摯な姿勢。

ルーペを持参されて居られた。

作品は四つ切り。

気に成る個所や文字を見つけられたら、必ず何が写っているか、何が書かれているか、ルーペで確認される。

おお!!。ビール一杯100円だとか・・・。

カスタードクリーム350円、随分高いものを食べていたのだとか。

これ、家内と食べに行ったんですよとか。

この姿勢は終盤になり、どのように疲れてても、作品のなかの気に成る個所や文字を見つけられたらサインの手を止められ、ルーペで確認され、「そうだったなー!!」「そうだったな!!」と納得される。

一枚、一枚の作品への強い愛着度を感じざるを得なかった。

この姿勢は最後の一枚まで変わることはなかった。

 

田中長徳先生の写真(機器も含めて)への造詣の深さは皆さんが知るところです。

読書の幅の広さ、深さ。

人脈の広さ(国内外も含めて)文豪から芸能関係、アーチストや様々な分野の方々との交流。

雑談も多岐に渡り田中長徳さんの様々造詣の深さに驚かされ、これらが全て田中長徳さんの作品の中に埋め込まれているのだと感じながら444作品、1作品ごと5個のサインを終えたのが22時。

 

面白かったのは田中長徳さんと高橋の作業の進め方。

総枚数444枚、6個のサイン。

全く真逆・・・。

始めは解らなかった・・・。

 

中盤前になり残り約300枚程・・・。

高橋さんそれで全部ですか・・・。

ハイ、そうです・・・。

後、1時間で終わりますねと・・・。

えええ・・・。

まだ、半分も進んでないのに3時間は有に超しているのにと思ったが・・・。

1時間で終わるはずがないと思ったが・・・。

は、はい。そうですかと。

 

それから暫くして・・・。

後、残り100枚ですね・・・。

いいえ200枚はあると思います・・・。

いいえ100枚です・・・。

では、101枚ではと申し上げた・・・。

 

さらに、残り30枚ですねと・・・。

あそうかとここで気がついた・・・。

残り15枚位ですかにと申し上げると・・・

ニッコリとされでは、最後の気力で頑張りましょうと・・・。

意欲を見せられる。

全く、高橋と思考が逆であった。

 

高橋の場合、多めにカウントをして自身にプレッシャーを掛け意欲を増すのに対して、田中長徳さんは少なめに設定して意欲を掻き立てられる。

全く逆の回路。

全く思考が逆。

編集者と作家の違いかなとも思った。

 

田中長徳さんの作品を確認されながらの一つ、一つの作業、全ての人柄が、作品はこうして生まれるのだとリアルに体験できたことは私、高橋にとって、こんな至福な時間を久しぶりに味わった。

正直、二人とも疲れは限界まで来ていたが、おみおくりをし、後片付け、戸締まりをして家に着いたのが23時を回っていた。

 

昨日は熟睡が出来た。

それは満足感からか・・・。

疲れからくるものか・・・。

まだ、解明は出来ていない。

 

とても、とても至福な時間であったことは間違いない。

 

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2018年7月17日「写真ほどリアルに後世に残るものはない」

「写真ほどリアルに後世に残るものはない」と言うタイトルで林忠彦写真展が「FUJIFILM SQUARE」7月31日まで行われている。

先週、土曜日に観に行った。

私自身も「写真ほどリアルに後世に残るものはない」とも思っている。

私がアートの中でも写真が好きになった動機の一つでもある。

しかし最近、写真は本当にリアルなのか、写真はリアルであるべきなのかと疑問を持つようになったことも事実。

だからだと言って写真が嫌になったのではなく、より好きになり興味の範囲が広がっている。

リアルの定義について下記のことが書かれている。

 

『デジタル大辞泉 - リアルの用語解説 - [名・形動]1 現実に即していること。また、そのさま。あるがまま。「現実をリアルに見据える」2 表現に現実感・迫真感のあること。また、 そのさま。写実的。「リアルな肖像画」「苦悩をリアルに描く」3 現実世界。実社会。』

 

林忠彦展を観ながらタイトルとは相反する作品があるなあー!!、と思いながら観ていた。

私が林忠彦の作品が好きであることを先ずはのべておきたい。

戦後のまもない時期と思われる写真。

銀座であろうビルの屋上の50センチも満たない、欄干もないコンクリートの淵に寝転んで水着姿の女性が日光浴をしている写真があった。

どう見てもこの時代、この姿で、このような危険な場所で水着姿で日光浴をするとは思えない。

リアル写真とは言いがたい作品。

しかし、とても私の足を長くとめ見いったインパクトのある作品である。

 

林忠彦が生きておればこの作品についてリアル写真とは言うまいと思いながら観ていた。

しかし、この写真の不思議なところは、観る側の私たちには、とてもリアルに見えることだ。

写真表現に求められていることは「現実」か「非現実」ではないかと思っている。

「現実」・「非現実」の違いは写真表現においての芸術性おいて、それ程問題では無い。

制作者が「現実」・「非現実」かを理解しておけば良いことだと思っている。

 

リアル写真であろうと演出写真であろうと制作者の意図が明確であれば良いことになる。

演出写真をリアル写真であるかのように語り、疑似作品を制作することが問題だと思っている。

疑似作品と演出写真は全く違うとも思っている。

しかし、疑似作品も制作者が本当に認識をし表現したければ芸術性は問われることはない。

 

リアル写真・演出写真・疑似作品は制作者の意志、意図に委ねねばならないことは確かだが、制作者は制作意図をハッキリと語りかけて欲しい。

示して欲しい。

また観る側の私たちはどこで満足が出来るのかを自身で認識しておくことが大切に思う。

 

しかし、林田忠彦の屋上の水着姿の写真、不思議と私にはリアルな写真に見えた。

とても満足をした。

ヤッパリ写真は面白い。

 

ただし、なぜ「写真ほどリアルに後世に残るものはない」と表題を付けたのか疑問が残っている。

 

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2018年7月13日 芸術と生活・・・。

私たちは日常生活の中でセンスよく、心豊かに暮らしたいと思っている。「

鶴見氏は芸術を「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」の3つに分類している。

鶴見氏の言葉をかりれば「人間生活の芸術的側面全体」に、「芸術の意味」が及ぶことになります。

日常の生活ありかたそのものが芸術だと鶴見氏は私たちに語りかけたいのではないでしょうか。

 

『限界芸術(げんかいげいじゅつ)とは、哲学者の鶴見俊輔が、芸術生活の境界線上に位置する広大な領域、専門的芸術家によるのでなく、非専門的芸術家によって作られ大衆によって享受される芸術を指していったもの[1]。鶴見は、芸術を、「純粋芸術」、「大衆芸術」、「限界芸術」の3つに分類している。

鶴見は、5000年前のアルタミラの壁画以来、落書き、民謡盆栽漫才絵馬花火都々逸マンガ[2]にいたるまで、暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた芸術的な表現を限界芸術とする。鶴見によれば、柳田國男柳宗悦宮沢賢治らは限界芸術の先駆者と見ることができるという。』

 

マナーであったり、言葉つかいだあったり、立ち振る舞いであったり、なんでもない時の仕草であったり、自身だけではなく、回りの人まで豊な気分させてくれる。

鶴見氏の分析「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」から読み取れば「純粋芸術」が一部の専門家のものである根拠が少なくとも希薄なものだということが理解できます。

私たちは「芸術」と聞いただけで「純粋芸術」と直に思う浮かべ考えがちです。

 

無論、「純粋芸術」を味愛、堪能することは自身の環境の輪を広げたり、豊かにすることに手助けになることは間違いありませんかが、そればかりではないはずです。

鶴見氏の書物の中には書かれてはいませんが、字間、行間から読み取れば「芸術」=「純粋芸術」ではなく、日常生活そのものが芸術であり身近なものですと・・・。

さらに読み解けば「純粋芸術」ですら、知識人や専門家、特権階級のものではなく私たちの日常の生活の中にあるのだと・・・。

 

私たちが日常のなかで「芸術」という境界を広げていくことによって「芸術と生活」が一体化され日常生活が美しく、豊かに過ごせるのではと考えます。

「芸術」は身近なものであり、日常生活の中にあると考えます。

「美しきマナー」は他の人ともに豊さを享受できると考えます。

 

どうすれば「美しきマナー」を持って生活出来るのかと言えば「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」はとても、身近なものであり、身近にあると認識することが大切に思えてなりません。

 

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2018年7月12日 アーチストが貧困な理由の一つ・・・。

1年程まえに実際にイギリス・ロンドンでギャラリーを経営していたから聞いた話。

ロンドンでは殆どのギャラリーが水曜日にオープニングパーティーを開くそうだ。

センターテープルにはドリンク(シャンペンゃビール、ワインなど)とドネーションboxが置かれていると。

ドリンクはワインメーカーや各メーカからの寄贈。

 

ドネーションとは、ソフトウェアの利用に対する対価の支払方法のうち、ソフトの作者に対して任意で支払われる料金のことである。 ドネーションとは一般に「寄贈」を意味する英語である。 ドネーションの支払を条件として配布されているソフトウェアは、一般にドネーションウェアと呼ばれている。』

 

その、ドネーションboxには「作家のために」とか「ギャラーの改装のために」とか、今、日本で言えば「西日本の水害被災のために」とか、ギャラリーごとに、ドネーションboxには確りと使用目的を書かれているそうだ。

お客さまは水曜日のギャラリーツァーを楽しみにして、各ギャラリーで一杯のドリンクとアートを楽しみ、次のギャラリーへと足を運ばれるとのこと。

滞在時間は10分前後だとのこと・・・。

気にいったアーチストや作品があれば、後日必ず来館されるとのこと。

 

帰り際に、ドネーションboxに小額、時によっては中額のコイン、紙幣を入れて次のギャラリーへと・・・。

子供連れの家族でのギャラリー巡りを楽しんでい方々も多く水曜日を楽しみにしていると。

ヨーロッはでは小さいころから作家に対して、スポンサーシップが自然と身につき、身についているとのこと。

小さな子が1コイン、ドネーションboxへ入れる姿は愛らしく、なんとも言えない胸が熱くなる光景を体験したと語って下さった。

 

お話を聞きし、アーチストに対して、アートに対しての接し方が幼い頃より違うのだと思った。

うらやましとも思った。

文化の違いを感じた。

アーチストへの思い、接し方が違うと・・・。

なんと、素敵な習慣であり文化だと羨ましく思った。

 

作家の活動は制作活動だけではない、作品が人の手に渡らなければ次の制作活動にも支障がきたさないとも限られない。

私はアマチュア、プロと分離することは望まないが、本日は便宜上アマチュアと呼ばして戴く。

日本のアマチュアの方々は高額なカメラやレンズ、周辺機器を含めて相当数の装置を持たれている。

装置類の購入金の一部で良いからアーチストのために、小スポンサーで良いからなってくれないかと何時も思っている。

でなければアートの輪は広がらない。

アート文化は広がらない。

なんらかの形で直接的にアーチストの小スポンサーになって欲しいと思う。

日本の教育、地域文化、家族文化のアートに対しての教育が悲しいと思う。

 

良きアート、楽しきアートを観たいと思う。

観たいと思うのであれば、観る、見せて戴く私たちもアーチストを育てる責務の一端があるのではなかろうか。

先ず、1枚、1点求めて戴きたい。

1年に1枚、1点求めて戴きたい、そうすれば自身のアートの視野が広がります。

 

素晴らしきアーチストを、将来性のあるアーチストを放置していてはいけないと思う。

アーチストの貧困を許し、放置してはいけないと思う。

観る、見せて戴く側の1枚、1点がアーチストへの多大な希望を与え、次なるモチーフへと突き進む勇気を与えるかを体感して欲しい。

理解して欲しい。

 

アーチストを貧困に放置していてはいけない。

観る側、見せて戴く側の姿勢を一歩立ち止まって考えて欲しい。

アートをアーチストともに楽しみたい。

 

サアー!!。私たちも小スポンサーになれる。小コレクターになれる。

 

 

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2018年7月11日 昨日、写真表現のfake性について書きましたが、思わぬ反響や抗議を戴きました。

昨日、写真表現のfake性について時間のない中、書きましたが思わぬ反響や抗議を戴きました。

驚きました。

抗議を含めてありがたいと思っています。

デジタルの作品がfakeの世界だとは誤解しないで戴きたい。

しかし、デジタル化の進化によりfakeが、より簡単に表現が出来ることになったことを認識すべきだと語りたいだけ。

 

無論、高橋国博はストレート写真が好きです。

好みです。

写真表現はストレート写真であるべきだとも思っている。

真実に迫ろうとする姿勢。

真実を観たいという姿勢。

本質に迫ろうとする姿勢。

本質を探りたいと言う姿勢。

ありのままを記録として残しておきたいと言う姿勢。

などなど、写真表現はストレート写真であるべきだとも思っています。

この姿勢こそが写真表現の神髄だとすら思ってます。

 

しかし、簡単な作業から言えば暗室作業をとっても、おい焼きや焼き込みなどなど・・・。

植田正治さんは印画紙をUの字に曲げてプリントをされたことは有名な話。

オノデラユキさんの「ローマ ローマ」自らの調色技法。

様々な技術と自身の思考、思想に基づき写真表現は可視化されるのだと思ってます。

被写体を通じて何を伝えたいのか、伝えるべきなのかは写真表現の持つ命題だと思う。

 

しかし現在、デジタル化の進化によりいか様にも変化させられる現実の世界があります。

スマートフォン1つでも驚くべき現象を私たちは体験することが出来る。

疑似体験の世界へ私たちを誘ってくれます。

 

私の好きな白髪一雄の後期の作品なんか真実を語ろうなんて思ってもないと思う。

観念芸術の際ものだと思っている。

だから面白い。

だからクダラナイとも思う。

概念芸術=観念芸術(1960年代〜1970年代に起きたコンセプチュアル・アート=前衛芸術運動。)

 

話を戻すと写真表現の世界で、デジタル化の進化にともないfakeの世界は避けて通れないと思っている。

fakeと言う言葉がいけないのかもしれない、fake=想像の世界と言えばより説得力が増すと思われる。

fakeの世界がごまかしの世界であっても表現者が強く認識をして、観る私たちをfakeの世界に誘ってくれることは喜ばし、楽しましてくれれば良いものである。

 

デジタル化の進化の恐ろしきところは表現者がfakeの世界だと認識、理解していないことである。

その様な作品にはなんら価値を見出すことは出来ない。

fakeの世界感を認識せずに、現実の世界感であるかの様に語ることは間違いである。

 

fake=想像

デジタル化の進化で今迄、想像もしなかった世界が観れていることを私の喜びとしたい。

積極的に受け入れて行きたいと思う。

衰退する写真表現の領域、デジタル化の進化は救世主になりうるかも知れない。

と、昨日は語りかけたかった。

 

しかし、高橋国博は古典技法や銀塩作品が大好きだ。

ギャラリー冬青は古典技法や銀塩作品に拘って行きたい。

 

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2018年7月14日 写真は真実を写せるのか、fakeの世界なのか・・・。

写真は真実を写せるのか・・・。

写真は「真」を「写す」と訳されている。

本当に撮る側も真実を写しているのか、観る私たちも真実を観ようとしているのかと、自身に振り返ることが多々ある。

私たちは単に美しきものを、芸術性を求めているのではないか・・・。

 

土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」有名な言葉だ。

 

いくら演出がされていないとは言えども、私たちは厚さ1个睨たない表層に現れている現実を観ることしか出来ない。

そこに被写体の内側までえぐれるのか、写しても、観る側の私たちも。

土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」の言葉と裏腹に、土門拳ほど演出に拘った写真家はいないと話を聞いたことがある。

室生寺の撮影のおり、コケや石畳に水をかけたり、電線が邪魔だといって電線を外させたりと。

「絶対非演出の絶対スナップ」なにを私たちに語りかけようとしているのか。

私たちは無意識の内にカメラを持った途端に、真実を撮りたい、被写体の内側まで迫りたいと思っているのではあるまいか。

そのこと事態を否定する私ではない。

 

写真表現に置ける、デジタル化の進歩により真実の世界とfakeの世界が曖昧になって来ているように思える。

私は写真表現のfakeの世界は「有り」だと以前よりと言うより、昔から思っている。

それは写し手、作り手の意識の問題だと思っている。

写し手に可視化されるものに対して作り上げて行く責任と自由度が与えられていることを、観る側の私たちも理解を致さねばならない。

 

写そうと言う行為、即ち誰かに観て欲しいという衝動に掻き立てられるのではないかと考えます。

その結果として写し手が、リアル感に留まらず想像を脹らまし、それがfakeの世界であっても構わないと思っている。

その場合、写し手がfakeの世界だと強く認識していることが大切であり、強く求められていることを理解して置くべきだと思う。

 

『土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」にしても木村伊兵衛にしてもカルティエ・ブレッソンにしても、ある時代の「写真芸術」は「撮られることを意識せず希望もしてない人の写真を勝手に撮って勝手に発表する。」していた。』

 

デジタル化の今、土門拳や木村伊兵衛、カルティエ・ブレッソンが生きていたらどんな話をするのか聞いてみたい。

デジタル化の進化により益々、真実とfake世界の写しての認識、意識、理解が求められ、観る側も否定せずに理解致さねばならないのではと思ってます。

 

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2018年7月9日 先週の土曜日「清里フォトアートミュージアム」へ・・・

先週の土曜日「清里フォトアートミュージアム」へ。

「島の記憶」=(1970〜90年代の台湾写真)を観に行った。

10人の写真家の作品が展示してあり、その内8人の写真家が来日されていた。

台湾の写真家では初の文化勲章を受けられ、ギャラリー冬青でも展示をして戴いた「張照堂先生」や「劉振祥先生」ともお会い出来、歓談ができたことはとても意義があり楽しかった。

 

台湾からも台湾市立美術館の館長や多くの関係者の方々が来日されていた。

以外と多くの台湾の写真家、関係者に知人が多かったことには私自身も驚いた。

出版社として34年間、ギャラリー冬青として13年間続けて来たことの意義を改めて感じた。

それだけ責任も重いということになることをヒシヒシと感じながら懇談に耽っていた。

 

作品は戒厳令が解除される前後の作品が多く展示してあった。

田舎の風景であったり、都市の日常の写真であったりとするが、どの作家の作品からも緊張感が漂う。

同時期の日本では土田ヒロミ写真集「俗神」・須田一政写真集「民謡山河」・高梨豊「都市へ」・北井一夫「村へ」などの名作写真集が出版された。

のどかな大人や子供達の仕草や立ち振る舞い、風物や田園風景が撮られている。

とてものどか、どこか明るい。

これから、高度成長期に向かうという雰囲気が作品からは伺い知ることが出来る。

この度の台湾の写真家とは全く違う。

 

張照堂先生からどうですかと声を掛けられた。

とても、同時期の日本の写真家の写真とは違い、緊張感があり観る私たちに迫って参りますとお答えをした。

張照堂先生そうですかと。

なぜと思われますかと・・・。

 

大陸との関係、国民党一党支配、蒋介石支配による政治的弾圧(日常生活でも弾圧が行われた。)から来るものではないでしょうかとお答えした。

張照堂先生、ニコニコしながらそうですねと。

高橋さんはどこで写真を勉強しましたかと・・・。

いいえ勉強はしておりませんと・・・。

高橋さんは見えるですね、私たちの気持が心が解るんですねと語って下さった。

その言葉が「清里フォトアートミュージアム」来て、多くの台湾の方々とお会い出来て良かったと思った。

 

【台北・福岡静哉】世界史上最長と言われる台湾の戒厳令(1949〜87年)が解除されて15日で30年を迎える。当時は国民党の独裁政権下で、多くの市民が反政府活動などの理由で投獄、処刑されたが、死者数など不明な点は多い。蔡英文政権は真相究明に取り組む姿勢を強く示す一方で、供述調書など膨大な資料の整理は進んでいない。

 蔡氏は12日、民進党の幹部会合で、戒厳令解除30年について「過ちを反省し、自由と民主主義を共に守ろう。過去を直視してこそ、未来を創造することができる」と述べ、真相究明を目指す姿勢を改めて強調した。(毎日新聞より)

 

この時代は自由に写真など撮れなかった。

直に警察や軍隊に捕まってしまう。

逮捕、監禁されてしまった時代。

良く、記録として、ありのままに撮られ残して戴いたと感銘をした。

 

最後に館長の細江英公さんが総括として、とても緊張感のある写真ですね。

この緊張感はどこからくるのでしょうかねと・・・。

ひととき、台湾は、日本の占領下にありましたが、日本人は日本人として、台湾の人は台湾人として立場、立場で表現していくことが大切であり、写真表現として、お互いに理解していくことが大切ですねと・・・。

その意味でこの度の写真展はとても意味があり、意義深いことですと締めくくられた。

 

前夜は日本の写真家の方々と徹夜して懇談をされたとのこと。

日本がも土田ヒロミさんや瀬戸正人さん、伊藤俊治さん、港千尋さんら多くの方々が参加されていた。

 

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2018年7月6日 なぜ多くの芸術家は貧困なのか・・・。

以前にもこの様な内容ついてブログで書いたと思います。

 

毎年、多くの芸術系大學または専門学校から世に多くの生徒がアーティストとして、アーティストの卵として世に送りだされます。

「ところてん」ではないがアーティスト、アーティストの卵は構造的に毎年輩出される。

想像しても恐ろしい。

その意味で特色があり、卓越したものしか生き残れない構造となっている。

 

「金と芸術なぜアーチストは貧乏なのか」ハンス・アビング著 (山本和弘訳)の有名な著書があります。

ハンス・アビングはアーティストであり経済学者でもありました。

 

ハンス・アビングは著書の中で次のことをのべいる。「芸術に携わる人、特に芸大の教師達が商業を嫌うのか。それは芸術を『神聖なもの』(芸術神聖神話)と見る思い込みが原因だったのです。」

更にハンス・アビングは「19世紀末にボヘミアンアーティストが多数生まれた頃からそのような思想が定着したようです。(真善美説がいかに現実的ではないとの問いが沸き起こって来たと思います。起ってきました。)しかし、結果として、多数のアーティストが食えない。食えないことを礼賛するアカデミズム。」と語っています。

 

更に、更にはハンス・アビングは「多数のアーティストが食えない。食えないことを礼賛するアカデミズム。しかし、それではいけないと私は思います。商業を排除し、助成金にたよる事が一層貧しいアーテイストを増産する結果となっている」と語っている。

 

ハンス・アビングは「アートを神聖なものだと想うことが、アーテイストを誤った信念へと導いている。間違った信念とは、『霞を食べて創作する』事です。」とも話を続ける。

「本当の芸術というのはそんなもんじゃないと想います。人の暮らしを豊かにし、感動を与えるのがアートであって、感情や信念の勝手なばらまきはアートでもなんでもないのだと想うのです。私は食える芸術家・工芸家を育成しなければならないと想います。」

 

だからと言ってアーティストだけの問題として片付けるのは、いかにも無責任のように私、高橋は思えます。

観る側、見せて戴く側も、ただ観るだけではなく、見せて戴くだけではなくアーティストへの経済的フォーロが伴うことを理解いたさねばならないと思う。

「芸術」という枠を確立するにはアーティストと観る側の私たちも、「芸術と言う土台」の上に立っていることを理解すべきではないでしょうか。

更にはコマーシャルギャラリーを運営する者の1人として、小規模でもスポンサーとして自身の立つ位置を認識して欲しいと強く願います。

スポンサーなくしてアーティストの表現はあり得ない。

 

アーティストに表現を求めるのであれば観る私たちも、それなりの(スポンサー)責任が伴うのではないかと考えます。

今は亡き、ツァイトフォトサロンの石原悦郎さんは、私にこう語って下さった。

ツァイトフォトサロンでは作品を買わざる者はツァイトフォトサロンの中では作品の評価をさせなかったと。

今なって思えばウンチクのある言葉だと思う。

も一度、アーティストとはなにか、芸術を構成するものはなにかについて、それぞれの立場で考えてみてはどうでしょうか。

 

アーティストに求めるぶんだけ、観る私たちも応分の責任が伴うのではないでしょうか。

 

※7月6日(金曜日)、勝田暉子写真展「小さな旅のはじまり」のオープニングパーティーが19時より開催致します。

是非、お出で下さい。

現在は倉敷市在住の勝田暉子さんは植田正治さんを師匠と仰ぎ、1960年代後半〜1970年代の山陰で撮られた作品を発表して戴きました。

 

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