アメリカ軍(進駐軍・1950年前後)の将校婦人の似顔絵を書いた。2枚。
何故か1枚が我が家に随分長い時間飾られていた。
父親もとても気に入っていた作品。
ある日、父親はそのキャンパスに真白な絵具で塗りつぶした。
恐ろしくて、その理由は聞けずにいた。
1週間程たってから白く塗られたキャンバスの上に、木立の間から見えるキリスト教会の絵を描いた。
と、言う様に絵画は絵具を幾重にも重ね合わせたり、自身の内成るものを可視化されたものを消し、また内成るものを可視化する。
なぜ、新しいキャンバスにと子供ながら思った。
それが解ったのは私が中学生になってから。
母親から聞かされた。
(後日に書きます)
の、続きです。
私が描き直された「木立の間から見えるキリスト教会の絵」を父が散歩や外出をしているときに良く見ていた。
母は父がいないとき語ってくれた。
お父さんは将校婦人の2枚の残されたうち、この1枚の方がとても気に行っていて、いずれ将校夫妻にも残された方が良い出来栄えと理解され我が家へ引き取りに来ると思っていたとのこと。
1年は過ぎていたと思う。
母親が残された絵を説明しに将校宅に行ったとのこと。
将校夫妻は3週間程前にアメリカ本土に帰還されたことを告げられた。
そのことを母は父に告げた。
私の前で余計なことをしたと母に激怒した。
その当時、何故、父が激怒しているのか理解が出来なかったし、理解しようともしなかったと思う。
母親が可哀想で、ただそれだけ。
でも、私が父の留守のとき「木立の間から見えるキリスト教会の絵」を見ていたことは良く覚えている。
何故、気に入っている「似顔絵」が残されたのかという理由を母から聞かされた。
父は5日間程かけて婦人をデッサンしたそうだ。
デッサンが終わり、婦人はそのデッサンを見て納得したものの、帰り際に写真館で撮られた写真を父に渡しこれを描いて欲しいとのことだったそうだ。
父親は自身のデッサンの絵と写真館のポートレート写真の絵、2枚を描き見せたとのこと。
婦人は写真館のポートレート写真の絵を選んだそうだ。
父は母に実に婦人は解っていない。
今に後悔してこちらの絵を取りに来るはず。
そのときには、もう無いと言いなさいと言われていたとのこと。
私は残された絵に父親は幾度も修正と言うか、絵具を足していたことを覚えている。
遂に、将校婦人の絵に白い絵具の日が・・・。
父にとって婦人の絵は無価値の存在となった。
無価値の絵を消してしまったわけ・・・。
母の話は中学生になっていた私にも、おぽろげに理解は出来たものの、戦後みんなが苦しい時代、絵画など全く売れない。
母が父の絵を個人的スポンサー(当時、日本航空の副社長さん)のところへ申し訳なさそうに、持っていく姿を知っていたから、私は父親の態度か許せなかった、思いの方が強かった。
しかし、今では父親の自身の「絵」に対しての姿勢、思い、誇りが痛い程、理解出来る。
誇りさえ覚えることがある。
写真表現はシャッターを切ってしまえば写ってしまう。
「もの」は、か成らす写ります。
写すのではなく、切り取るのではなく、その「もの」の何を撮りたいのかが可視化される作品には、写真表現者には求められているのではないか思います。
表層に現れたものは時間、思い、何を、などなどが必ず現れると信じています。
アイディアはアイディアにしかなりえません。
アイディアと言う「種」を自身のものにしていくことが写真表現者には求められている気がしてなりません。
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