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2018年7月14日 写真は真実を写せるのか、fakeの世界なのか・・・。

写真は真実を写せるのか・・・。

写真は「真」を「写す」と訳されている。

本当に撮る側も真実を写しているのか、観る私たちも真実を観ようとしているのかと、自身に振り返ることが多々ある。

私たちは単に美しきものを、芸術性を求めているのではないか・・・。

 

土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」有名な言葉だ。

 

いくら演出がされていないとは言えども、私たちは厚さ1个睨たない表層に現れている現実を観ることしか出来ない。

そこに被写体の内側までえぐれるのか、写しても、観る側の私たちも。

土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」の言葉と裏腹に、土門拳ほど演出に拘った写真家はいないと話を聞いたことがある。

室生寺の撮影のおり、コケや石畳に水をかけたり、電線が邪魔だといって電線を外させたりと。

「絶対非演出の絶対スナップ」なにを私たちに語りかけようとしているのか。

私たちは無意識の内にカメラを持った途端に、真実を撮りたい、被写体の内側まで迫りたいと思っているのではあるまいか。

そのこと事態を否定する私ではない。

 

写真表現に置ける、デジタル化の進歩により真実の世界とfakeの世界が曖昧になって来ているように思える。

私は写真表現のfakeの世界は「有り」だと以前よりと言うより、昔から思っている。

それは写し手、作り手の意識の問題だと思っている。

写し手に可視化されるものに対して作り上げて行く責任と自由度が与えられていることを、観る側の私たちも理解を致さねばならない。

 

写そうと言う行為、即ち誰かに観て欲しいという衝動に掻き立てられるのではないかと考えます。

その結果として写し手が、リアル感に留まらず想像を脹らまし、それがfakeの世界であっても構わないと思っている。

その場合、写し手がfakeの世界だと強く認識していることが大切であり、強く求められていることを理解して置くべきだと思う。

 

『土門拳の「絶対非演出の絶対スナップ」にしても木村伊兵衛にしてもカルティエ・ブレッソンにしても、ある時代の「写真芸術」は「撮られることを意識せず希望もしてない人の写真を勝手に撮って勝手に発表する。」していた。』

 

デジタル化の今、土門拳や木村伊兵衛、カルティエ・ブレッソンが生きていたらどんな話をするのか聞いてみたい。

デジタル化の進化により益々、真実とfake世界の写しての認識、意識、理解が求められ、観る側も否定せずに理解致さねばならないのではと思ってます。

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。


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