現在社会のSNSを始め様々な形で映像が見れ、検索ができ、必要、不必要に関係無く勝手にパソコンや携帯に映像が飛び込んできます。
単なる映像を見るという行為から言えば、大げさかかもしれないが写真の持つリアリティは失われたかも知れません。
そこで大切なのは表現者の被写体への時間、体力、経済、思想、哲学、思い(過去・現在・未来)などなど、一枚、一枚の写真の積み重ねの上に言葉が必要になってくるように思えてなりません。
言葉のもつ重要性を再認識することが大切に思えてなりません。
デジタル化(携帯電話を含めて)が進む中、映像そのものだけであればフェイク化が益々進むように思えてなりません。
デジタル化の進化は一挙に(全てとは言いがたいが、ただし多くは)フェイク化された情報を私たちは受け入れているかも知れません。
写真の持つ最も重要な一つのリアリティ。
写真表現のリアリティは何もドキュメンタリー写真ばかりではなく、全ての写真表現に求められているのではと思います。
現代アート系の作品であっても、表層化された作品には必ずや何がしかの言葉が埋め込まれていると信じます。
ビジュアルに流されてくる映像や作品に一喜一憂することなく、冷静に客観的に判断をしなければ、私たち自身の本当の写真に対する感動すら薄らぎかねません。
デジタルの進化にともない写真表現のリアリティ性の模索は、大変難しくなって来ていると思います。
しかし、写真からリアリティ性を取り除けば何がのこるのでしょうか。
デジタルの世界だからこそ、写真の持つリアリティを考えて見たいと思います。
※9月7日(金曜日)19時より船尾修さん(大分・国東半島在住)のご出席を戴きオープニングパーティーをさせて戴きます。
是非、ご参加下さい。(会費無料)
●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。