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2018年12月12日 アートの歴史は繰り返されるのか・・・。

第一次世界大戦の主戦場はフランスとドイツでした。

860万人の戦死者、約2120万人戦傷者、行方不明者約780万人を出したと言われています。

始めて世界大戦を体験した先人たちは、極めて深刻な思想的打撃を受けました。

 

その中で生まれたダダイズム、表現主義、シュールレアリズムなどでした。

表現主義は「生の肯定」であり、シュールレアリズムは「内面の肯定」であったと言われています。

先人たちは様々な苦闘の末に、知識を蓄積をし闘った社会背景に視野を広げ表現したことに、現代の私たちは学ぶべきではなていかと考えます。

特に今だからこそ。

 

アートは表現者は社会との関係抜きには語れない、作り出せないと考える1人です。

現代と言うより現在といった方が正しいと思いますが・・・。

社会との関わりなく、社会との関係性を考えることもなく表現されていることに、一抹の不安を覚えるのは私だけの問題なのでしょうか。

 

アートは表現者たちは何時の時代も、社会との関わりの中で、苦闘のするなかで生まれ開花してまいりました。

観る私たち側も、表現者たちの社会との関係性まで思いをいたし観てまいりました。

特に近年、アートの世界はあたかも社会の関係性を断つことが、新しい表現だという風潮がもて栄されているように見えます。

持て栄されていることも事実です。

であるならば、表現者はなぜ社会との関係性を断絶するのかを語る必要があると思います。

全く語られていないことが現実です。

「観て解る」とは表現者としての役割りを果たしているのでしょうか。

表現者は自らが語るべきだと思います。

 

私のブログを今日、お読みの方々で高橋は古き概念のもとアートを観ている、接していると思われる方々も多いかも知れません。

アートシーンを振り返って見たとき、何がしかの、社会的背景、思想的背景に裏打ちされたものだけがアートシーンに残っていることが理解出来ます。

 

私たちは政治や社会の中で呼吸をし生活を営み、表現しています。

自身の土台となるべき根拠を示すべきだと考えます。

自身の表現の母体、根拠を語るべきだと考えます。

表現者側も観側の私たちも一度、立ち止まりアートシーンを振り返って見ては如何でしょうか。

大切なものを見落としているかも知れません。

 

写真表現は様々な機器の発達により、表現の領域を益々、拡張しているかのように見えます。

写真表現は装置のお陰で他のアートよりも容易く可視化されます。

その結果として機器の発達により、装置を使うことに執着をし、機器に使われることに危惧いたします。

 

それだけに写真表現者は自身の土台となるべき根拠を示すべきだと思います。

自身の表現の母体、根拠を語るべきだと考えます。

 

※13日・14日は公文健太郎写真作品集「地に紡ぐ」の印刷立ち会いのためブログを休ませて戴きます。

 

※作家在廊日

12月12日・13日・14日・15日・19日・20日・21日・22日です。

13時から19時まで在廊されます。

 

■10年前より冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博の年賀状はとり止めをさせて戴いております。

 皆様におかれましても、冬青社・ギャラリー冬青・高橋国博宛ての年賀状はご無用と存じます。

 ブログの上で大変恐縮でございますが、何卒宜しくお願い申し上げます。 

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 


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