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2019年5月15日 重森弘淹「写真芸術論」から

重森弘淹「写真芸術論」20ページ〜21ページ

機械的技術と個性

---描写から記録へ

 

「ボードレールがガラス玉のついた黒い箱に激しい嫌悪をしめした話は周知のとおりである。

かれらによっは、写真は正確なメモたりうれば十分なのであって、それ以上に空想の領域や、人間の精神だけが関知するような領域に侵入するとすれば、大それたことになるだろうというのである。

この警告は十分傾聴に値するのであったといわねばならない。

 

実際20世紀にいたる半世紀の写真史は、写真がその聖域に入りこんで手痛く復習をされていた歴史があったからである。

しかし、今日の写真は、むしろメモがわりに徹することによって、つまり克明に記録された事実のメモにたいして、逆に人間は空想し心を傾けるようになったのである。

ボードレールの警告の逆説化がここにはある。

画家がどれほど写真機にたいして恐怖したかは、産業革命当時、機械に抱いた労働者の心理に酷似していたというルイ・アラゴンの指摘をまつまでもないだろう。

人間の魂の表現に、機械が介入してくるという事態は、機械が人間によってつくられたものだけに、我慢できるのてはないという気分は、現代に今日も残っている。

そしてその厭悪感は、機械美や機械芸術への、際眼のないロマンティシズムと表裏してそんざいしているのである。

人間の魂の表象である表現は、つねに身体的な技術によってが駆使されるとき、それは芸術となった。

「すなわち芸術とは、人間個性の十分な刻印を残しているところの技術の一部」であるとマンフォードはいう。

芸術創造における技術とは、つねに個性そのものにほかならないというのである。」

(※改行はブログ上、読みやすくするため高橋が行っております。)

 

ここでと注目すべきことは二つあると思う。

一つには・・・。

この「写真芸術論」が書かれたのが1967年であること。

この時代、まだデジタルカメラがない時代。

多くの写真家がデジタルカメラを手にしたとき、等しく口にする言葉は・・・。

・デジタルカメラを持ったとき、ついついシャッターを押す機会が多くなった。

・直に検証できるから再撮影をしてしまう。

・フイルムカメラほどデジタルカメラはシャッターチャンスの意識が薄れてしまう。

ついついセレクトを中心に考えてしまい、被写体との関係性が薄れてしまう。

などなど・・・。

ボードレール氏が語る「写真は正確なメモたりうれば十分なのであって・・・」となんとなく頷いてしまう。

重森弘淹氏が生きていられたら、デジタル時代の今、どのように書かれるのか興味がたえない。

 

二つには・・・。

「人間の魂の表現に、機械が介入してくるという事態は、機械が人間によってつくられたものだけに、我慢できるのてはないという気分は、現代に今日も残っている。」という重森弘淹氏の私たちへの語り掛けである。

写真表現者は等しく装置を使わざるをえない。

私たちはその装置とどう向き合い、使いこなし、自分らしさの個性を見出すのかが問われているような気がしてならない。

 

例えば、山梨県の忍野八海に行けば常に何十代ものカメラが富士山を狙っている。

そこに自分なりの個性を見出すには自分なりの熟知した装置と向き合わなければならない。

 

重森弘淹氏は次の節で「個性的技術」について書かれています。

明日にでも・・・。

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 


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