2019年3月27日 本日は・・・

香港ブックフェアー参加致します。

今年で4回目となります。

その諸々準備のためブログ本日と3月28日〜4月2日まで休ませて戴きます。

 

 

※4月5日(19時〜20時30分)マイケル・ニッケ写真展「UNPLUGGED」写真展に合わせまして、 

マイケル・ニッケ氏(ドイツ)×フォトグラファー・ハル氏のトークショーがございます。

●会費1000円

●先着30名様迄

 

※お申し込みはギャラリー冬青 <gallery@tosei-sha.jp>のメール、電話03-3380-7123にてお願い申し上げます。

是非、ご参加下さい

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 


2019年3月26日 SNSの時代だからこそ・・・。

重森弘淹氏の「写真芸術論」は2.3日お休みさせて戴きます。

デジタルの進化とネット社会になり、誰しもが日常的に写すことに馴れて、益々情報(fakeも含めて)が拡散している今日だからこそ・・・。

ネット社会で、自分は世界に繋がっていると勘違いをしている人間が多いのではあるまいか。

 

物理的にはネットで世界と繋がっている。

ネット社会の恐ろしきところ、大きな落とし穴は「自分自身の中に閉じこもり、安心していられることだ。」

ネット社会は基本的には個の世界ではあるまいか。

 

意志や意識、思うことや感じること、思いやりや助け合い、いがみ合いや理解、努力や協力などなど、人間が本来持ち得ている皮膚感や感情が失われつつあることに危惧致します。

 

だからこそ、意識して個とは「何モノゾ」やということを強く理解をしておかなくてはならない。

個とは「何モノゾ」やを理解し把握するには他者との関係性を知ることが大切。

他者との立つ位置、幅、感覚を知っておくことが大切考えます。

 

他者との関係性を知るということは、他者と直接にディスカッションをする以外に自身は「何モノゾ」やを知り得ることはあり得ないと考えます。

一方的な配信では個としの自分自身を見出すことはできない。

「イイネ」も含めて駄目である。

「イイネ」が多ければ多くの人に繋がっていると勘違いをしていることに気づくべきである。

 

デジタル時代、ネット時代がいくら発展しても、進化しても、個とは「何モノゾ」やということを強く理解をしておかなくてはならない。

自分自身の個の大切さが今日の今だからこそ、求められているのではあるまいか。

繰り返します「ネット社会の恐ろしきところ、大きな落とし穴は自分自身の中に閉じこもり、安心していられることだ。」

決して世界とは繋がってはいない。

 

思い切って表に出て他者とディスカッションすることをお勧め致します。

そうしなければ自身の作品の真の表現の価値すら見失い、見出せないことになりかねません。

自身の作品をステップアップして行くにはディスカッションを活発にしていく他にないと考えます。

 

「ネット社会の恐ろしきところ、大きな落とし穴は自分自身の中に閉じこもり、安心していられることだ。」

ということを気づくべきだと考えます。

 

※4月5日(19時〜20時30分)マイケル・ニッケ写真展「UNPLUGGED」写真展に合わせまして、 

マイケル・ニッケ氏(ドイツ)×フォトグラファー・ハル氏のトークショーがございます。

●会費1000円

●先着30名様迄

 

※お申し込みはギャラリー冬青 <gallery@tosei-sha.jp>のメール、電話03-3380-7123にてお願い申し上げます。

是非、ご参加下さい

 

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2019年3月25日 土門拳氏と重森弘淹氏の意志・・・。

土門拳氏の「カメラとモチーフの直結」とともに有名な言葉に「絶対非演出の絶対スナップ」という言葉が残されている。

に対して重森弘淹氏の言葉として「表現とは、作家の批判行為であり、それなくして表現は存在しない」と語っている。

対局にいる2人と言って過言ではない思う。

 

しかし、驚くべきことに土門拳氏と重森弘淹氏は共にリアリズム写真集団を立ち上げをしている。

後に互いに別の写真表現の道を歩くことになるのだが・・・。

土門拳氏はリアリズム写真集団としてアマチュア写真を主導した。

その主導は技術的なことよりも、撮影者の倫理観でり、姿勢であったりしたと言われている。

 

面白いことは土門拳氏自身が後に語っている言葉や姿勢だ。

「絶対非演出の絶対スナップ」この言葉は写真を志している方々はだれもが知る言葉だが、土門拳氏自身が自ら晩年に語っている言葉が残されている。下町の「縄跳びの子ども達」などは幾度も飛びなおしをさせ、撮影後にはキャラメルやチョコレートをお礼に渡したことを告白している。

晩年の名作と言われている「室生寺」の撮影のおり、付き人に「境内の石」に水をまかせたり、「電線」を外させたり、挙げ句の果てには「電柱」まで抜かせたという話も有名。

土門拳氏の影響下にあった人々の写真表現の領域を限定してしまった側面もあったことは歪めないと思う。

 

それに対して重森弘淹氏はリアリズム写真集団と訣別したのちは、写真表現に重きをおき、多くの写真表現者を輩出する。

重森弘淹氏の意志により、東京綜合写真専門学校の校長を継ぐ「土田ヒロミ氏」。

表現者として「須田一生政(故人)・鈴木理策氏」などとなど現在、世界的に活躍している写真家が多くいる。

 

今、誰しもが気軽に写真を撮れる、配信をする、出来る、時だからこそ・・・。

デジタルの進化とともに拡大を見せる写真表現。

だからこそ、今だからこそ、真に写真表現をと考えるとき、過去を学ぶことの大切さを痛感する。

 

今でも土門拳氏の重森弘淹氏の意志を大切にし、その上で写真表現の道を歩んでいる写真家が多くいることを身近に知っている。

 

※4月5日(19時〜20時30分)マイケル・ニッケ写真展「UNPLUGGED」写真展に合わせまして、 

マイケル・ニッケ氏(ドイツ)×フォトグラファー・ハル氏のトークショーがございます。

●会費1000円

●先着30名様迄(後14名様)

 

※お申し込みはギャラリー冬青 <gallery@tosei-sha.jp>のメール、電話03-3380-7123にてお願い申し上げます。

是非、ご参加下さい

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。

 


2019年3月22日  重森弘淹著「写真芸術論」その4

一章4節、前回の続き・・・

 

肉眼による想像意識に表象された現実像と、想像意識にかかわりなく物理的正確さで再生する映像との相克に、写真は自らの表現の可能性を深めてゆくことになるのである。

この問題についてはさらにあとに触れよう。

 

第二の写真の大衆的な性格は、「同じもの」が「同時に」「多くの人に」見られるところからきている。

写真はつねに身近かにあるものであり、手にとって見ることのできるものである。

写真はオリジナル芸術のように、格別なものではなく、卑近な存在であり、しかも題材自体が現実性を帯びたものであった。

そこにはオリジナル芸術とは別次元の売れとめ方も生まれてきた。

 

たとえばまたしてもベンヤミンの引用になるが、映画のスクリーンにたいしする受けとめ方と、絵画のカンパスにたいするそれを比較するとき「後者は観るものを瞑想へとさそい、連想作用させる。映画の場合、それは不可能である。ひとつの画面を眼にとらえたかと思うと、すでに画面は変っている。定着させることができないのである・・・・・・画面を眺めているひとつの連想のながれは、画面の変化によってただちに中断されるのである。ここに映画のショック作用があり、これは高度の神経のはたらきによってとらえぬはならぬ」のであ。

 

その点で写真は絵画に似ている。それでも絵画のように瞑想へさそいはしない。

おそらく絵画がミクロコスモス的空間であるのにたいして、だから完結した世界であるのにたいして、写真は未完の部分的空間であり、瞑想というより独自な作品と自分との閉鎖的な世界をつくる志向よりも、作品にたいして体験的であり、未完の空間へ自己を開放させようとする志向が本質なうちにあるからではないだろうか。

 

※この節で気になった点は下記である。

重森氏は「写真は未完の部分的空間であり、瞑想というより独自な作品と自分との閉鎖的な世界をつくる志向よりも、作品にたいして体験的であり、未完の空間へ自己を開放させようとする志向が本質なうちにあるからではないだろうか。」

と、語りかけている。

被写体に向かったとき確かに「瞑想」の世界に陥ることも確かにある。

あるいは意識して「瞑想」の世界へ自身をおきたいと願うときもある。

「意識する、意識をしない」とでは大きな違いが出てくるように思える。

「作品にたいして体験的であり」全く同感致します。

「未完の空間へ自己を開放させようとする志向が本質なうちにあるからではないだろうか。」

私は写真家ではないので良くわからないが多少、上記の語りかけには疑問がのこる。

確かに重森氏の言葉には説得力がある。しかし多くの場合、私たちが被写体に対峙するとき、既に被写体に集中しているのではあるまいか。まさにミクロコスモス的空間に立たされ、いるのではあるまいか。

と、考えます。

 

※4月5日(19時〜20時30分)マイケル・ニッケ写真展「UNPLUGGED」写真展に合わせまして、 

マイケル・ニッケ氏(ドイツ)×フォトグラファー・ハル氏のトークショーがございます。

●会費1000円

●先着30名様迄(後14名様)

 

※お申し込みはギャラリー冬青 <gallery@tosei-sha.jp>のメール、電話03-3380-7123にてお願い申し上げます。

是非、ご参加下さい

 

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2019年3月20日  重森弘淹著「写真芸術論」その3

(3節の後略)

1章4節・・・。

複製技術は、芸術の複製にとどまらず、自らが複製芸術に変貌したのである。

複製技術は芸術の大衆化をうながしたが、複製技術は複製技術を表現と伝達の手段としているため、オリジナル芸術とは決定的に異なる自らの芸術性を獲得する必要があった。

と同時に、複製芸術は当初から受け手の層を想定しい表現されるために、大衆的な性格をもたざるをえなかった。

自らの芸術性を獲得する契機は、むろん複製技術そのもののうちにあった。

それはレンズやカメラという物質や機械のうちにあった。

いやその前の本質を問えば、オリジナル芸術の表現を、手の延長である絵筆がなぞり、変え、うつしかえてゆく。

画家の眼にとらえるたものと、次第にカンバスに表現されてゆくものとの問いには、微妙な関連と断絶があり、またもうひとつのレンズという眼である。

肉眼は意識につらなる眼であり、レンズは意識を疎外しようとする物質の眼である。

またもうひとつのレンズという眼である。

表現作業の根底にこのような物質が介入してくるような芸術はそれまでまったくなかったといってよい。

(改行はネットで読みやすくするために高橋が行っております。)

 

※今日まで3回に渡り重森弘淹著「写真芸術論」を高橋自身が見聞をさせて戴いていますが、重森弘淹氏は写真は芸術であることを前提に書かれています。

前提となっています。

それにくらべ、土門拳氏と全く違った見解であると今のところ、高橋は理解致しています。

180°位違うかも知れません。

(このことは別の機会にでも・・・)

この節で面白きところはデジタルが進化している今日、自身の感覚の誤認、ズレを気づかずいる私たちに語りかけてくれている点ではなかろうか「肉眼は意識につらなる眼であり、レンズは意識を疎外しようとする物質の眼である。」

知らず知らずの内にレンズは自分の眼と思い込んだり、理解している人も多からずや・・・。

 

私がこの著を改めて見聞したいと思った切っ掛けは大きくは2つあります。

その1=現在、行われている若林勇人写真展「スタンダード」デジタルカメラ、インクゼット作品。

高橋をギャラリー冬青を以前にまして開放して戴いたデジタル展示への道。

 

その2=様々の手段、方法でネット上を始め広がりを見せるデジタル表現。

高橋的には無秩序に見えて混沌とした精神状態におかれていた。

まさに迷宮の世界に迷い込んだように。

そもそも「写真」とはなんであろうか、失いかけた物指しを見直したいと思い・・・。

かといって後戻りをするつもりもないが、もう一度「写真」とは、なんであるか確かめたいと思い、重森弘淹著「写真芸術論」を見聞させて戴いている。

この著を読み返していると何故か解らないが心が落ち着く。

写真の世界にいるような気がしてならない。

 

※4月5日(19時〜20時30分)マイケル・ニッケ写真展「UNPLUGGED」写真展に合わせまして、 

マイケル・ニッケ氏(ドイツ)×フォトグラファー・ハル氏のトークショーがございます。

●会費1000円

●先着30名様迄(後18名様まで)

 

※お申し込みはギャラリー冬青 <gallery@tosei-sha.jp>のメール、電話03-3380-7123にてお願い申し上げます。

是非、ご参加下さい

 

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2019年3月19日  重森弘淹著「写真芸術論」その2

1章3節の中で 重森弘淹氏はこう語りかけている。

 

ゆきつくところまでゆきついた芸術状況の中で、もっとも純粋芸術の複製を目的として出発した複製技術は、やがて独立した複製芸術というジャンルを形成するにいたるのである。

今日の高度な複製技術が、全て機械を媒介しておこなわれることは周知のとおりであ。写真の場合、芸術の複製や自然の模写のために要求された正確な再現機能と、大量伝達機能を具備したカメラという機械が、その能力のゆえにこそ新しい表現能力とそのリアリティを開拓してゆくのである。

より多くの見ることができるのである。ニューホールのいうように、カメラは、「記憶をもった鏡」なのである。

第二に、カメラは、人間の固定した視点を開放した。カメラはいつでもふいにあらわれ、どこへでも侵入してゆく。人間がそこにいて見ることのできない、遠い空間も引き寄せてしまう。空間はレンズの前に自由に収縮するようになったのである。

第三に、空間の問題ばかりではない。写真はすべて過去の生起した事象の表象である。現実の消え去った時間が、つねに現在という時点で再生されているのである。そのことは、われわれに新しい時間概念を自覚させることになったのである。また運動はすべて時間をともなっている。運動とは事物の変化の過程であり、時間はその変化の過程の物差である。スナップ・ショットは運動する事物の瞬間のヴィジョンをとらえるが、それはとりもなおさず時間という概念を、ある具体的状態に還元してとらえたいというほかならない。

第四に、カメラの角度によって、対象の姿の姿がいくとおりにも変化によって対象のもつ意味も変化すことを発見したのである。人物を上から撮るのと、下からのとではずいぶん変わってくる。下から見れば人物を仰ぎ見ることになって威圧感を覚えるし、上から見ると矮小化されて諷刺化されてしまう。

 

といったおおざぱに要約した理由だけから、複製技術は複製芸術に進化したのでせはない。写真がさらに印刷化され、迅速に大量伝達されるとき、われわれは異なった場所と時間に起った出来事をほとんど同時に体験できるようになったのである。そのような意味を帯びているかは、すべてベンヤミンの説を引用しておいたからくりかえすまでもあるまい。

 

※この節を読み「写真芸術論」は1967年に出版された。

2019年の今、デジタルカメラとその周辺機器を見たとき、重森弘淹氏はどのように私たちに何を語りかけるのかと思いながら読んでいたら、何だか微笑んだ。

随分、変わった原稿になるのではと・・・。

この章までは写真が芸術とは語られていない。

重森弘淹氏が語るカメラが印刷物と交わることによって発達してきたことは間違いない事実。

しかし、今日的には情報の伝達に主眼があるのではなく、さまざまな印刷物、特に写真作品集そのものがクォリティを要求されている。

写真作品集そのものが芸術作品であり高橋的には純粋芸術だと思っている。

 

で、なければ編集者なかかやっていられない。

 

※4月5日(19時〜20時30分)マイケル・ニッケ写真展「UNPLUGGED」写真展に合わせまして、 

マイケル・ニッケ氏(ドイツ)×フォトグラファー・ハル氏のトークショーがございます。

●会費1000円

●先着30名様迄

 

※お申し込みはギャラリー冬青 <gallery@tosei-sha.jp>のメール、電話03-3380-7123にてお願い申し上げます。

是非、ご参加下さい

 

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2019年3月18日 本日も・・・

本日も仕事の多重と海外(ロシヤ)スタイリストの「Lotta Volkova」(ネットで検索をして戴ければ・・・)さんがギャラリー冬青へ来館されます。ブログはお休みさせて戴きます。

 

※4月5日(19時〜20時30分)マイケル・ニッケ写真展「UNPLUGGED」写真展に合わせまして、 

マイケル・ニッケ氏(ドイツ)×フォトグラファー・ハル氏のトークショーがございます。

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●先着30名様迄

 

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2019年3月15日 重森弘淹著「写真芸術論」を見聞する・・・。

重森弘淹氏が書かれ1967年2月に美術出版社より出版された「写真芸術論」を読み返している。

「写真」とはなんであるかをもう一度知りたくなったからである。

1967年2月と言えばまだ生まれていない方も多くいられると思う。

しかし、今、読み返しても全く古さを全く感じない。

寧ろ写真家のバイブル書と言っても過言ではない。

 

第一章の1「写真の時代」の中に興味深いことが書かれていた。

(前略)コロディオン法の出現は写真が比類のない--たとえばそれまでの版画技法以上に--複製技術手段であることを証明したのである。そしてまた安価に肖像写真が手に入る喜びを大衆に与え、大衆はまた肖像写真熱にうかされることになったのである。大衆の肖像写真熱はブルジョワジーの階級的肖像として独占されていた肖像画の開放を意味するものであった。つまり肖像画の大衆の始まりであった。

しかし、写真が複製技術手段としてその位置を決定的にしえたのは、写真が印刷術という、もうひとつの複製技術と結びついたからである。

1850年代、すでに当時の日刊新聞は、ニュース写真を原画にして木版をつくり、それを刷り込んでいた。

ともあれ、木版としてであったが、ニュース写真の登場は、大衆をして肖像写真熱と同じような関心を世相に向けさせるとともに、新聞の性格すら変えずにおかなかった。ニース写真はニュース記事の信憑性を保証し、また迫真性をもたらし、ほぼ、現代の新聞の編集形式をこの時点で確立しえたのであった。

 

1897年イギリスのステファン・ヘンリー・ホーガンが網版の写真を高速印刷機で新聞に刷り込むことに成功し、ニース写真は完全に新聞に定着する。(中略)

 

この時期から、ようやく、芸術写真と報道写真が分化しだし、前者はアマチュアの、後者はプロェッショナルの分野となっていくのである。また前者を個人制作的なものとすれば、後者は情報産業との協同によって制作されるものとなってゆく。

 

重森弘淹氏がこの章で語る3つの面白き注文点が挙げられる。

1.「大衆の肖像写真熱はブルジョワジーの階級的肖像として独占されていた肖像画の開放を意味する」当時の多くの画家は自分たちの職業が奪われると戦々恐々としていた。ドガなどはフランス政府に対して写真の普及を止めるように嘆願書を送っている。

 

2.「写真が印刷と結びつく」ことにより、写真と技術は凄い早さで進歩し、一般市民の中に積極的に受け入れられていったことの指摘は、あたりまえだが面白い着目点だと思う。

 

3.「芸術写真と報道写真が分化しだし、前者はアマチュアの、後者はプロェッショナルの分野となっていくのである。」今日的に言えば商業写真家とそうでない写真家ということになるのだが、後者をアマチュアと位置づけているところに興味と深さを感じた。

まだアマチュアの定義は語られていない。

 

ここ暫くの私のブログは重森弘淹氏が語る「写真芸術論」を見聞して行きたいと思う。

 

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2019年3月14日 本日は・・・

本日は仕事が多重に重なっておりまかのでブログはお休みさせて戴きます。

 

でも一言・・・。

昨日、若林勇人氏の「作家による本棚」を開催させて戴きました。

この企画は北桂樹さんが考え立ち上げて戴いた企画です。

作家の本棚の一部をギャラリー冬青に持って来て戴き、作家がいかにして作品制作に取り掛かっているかを知るための企画です。

参加者が若林氏にお持ち戴いた書物を参加者が自由に閲覧をし、若林氏、参加者同士と自由にディスカッションを致します。

写真のことならず、アートや文学まで幅広く知識を得ることが出来ます。

自身の知識や思いや考え方を検証する切っ掛けともなります。

とても意義深く素晴らしい「作家による本棚」です。

 

昨夜は写真表現者としての若林勇人氏の土台の深さ、広さ、高さ、土台の更には硬さを十分に知る機会となりました。

以前よりこのことは理解している積もりではありましたが、若林氏の本棚の一部を切り取り、お持ち戴いたことにより改めて写真家・若林勇人氏を理解させて戴きました。

 

本当に本棚一部ではありますが、その一部から見えて来るものは、若林氏の読書の幅、奥行き、量の多さを垣間みることが出来ました。

それは写真集や美術史だけではなく文学、詩、哲学、思想史まで含まれその上で、写真表現をとの姿勢は貫かれている姿勢には感動を致しました。

「なぜ、撮るのか」「なぜ、撮らなければならないのか」自身との問答の中から生まれてくる若林ワールド。

この度の写真展の作品「スタンダード」に遺憾無く表現されています。

 

参加者のお一人の言葉、「一度、若林さんの本棚の全てを見てみたい」との発言。

この一言は参加者全員の思いだと感じました。

 

昨日は、素晴らしい「作家による本棚」の夕べでした。

若林さん、参加者のみなさまありがとうございました。

 

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2019年3月13日 昨日のブログのアクセス数に・・・。

昨日のブログのアクセス数に正直驚いています。

ギャラリー冬青も、高橋国博もデジタル・インクゼット作品を解禁したかと思われた方々がお読み戴いたのだと思います。

多くの方々から反響を戴き驚いています。

 

はい。ギャラリー冬青も、高橋国博もデジタル・インクゼット作品を解禁致しました。

ただし、若林勇人氏の「スタンダード」作品が基準です。

 

今迄、デジタル・インクゼット作品を拒否して来た積もりはなかったと思って居たのですが、昨日のアクセス数からして、高橋のまわりは拒否して来たかのように見えていたのだなと自覚致しました。

ブログを読んで戴いている方々には今更何をと言う思いになられるかもしれませんが、デジタルにはデジタルしか表現出来ない領域があることは度々申し上げて来た積もりですが、なにか言い訳をしている様です。

 

フイルムカメラや古典的技法とはデジタル作品は別の文化として受け入れ、それぞれの立場で表現を構築して行くことが大切に思えてなりません。

 

これだけは言えることだと思います。

デジタルカメラ・周辺機器はフイルムカメラの代替品ではないこと。

 

仕事が重なり今日はブログになっていませんが・・・。

ギャラリー冬青も、高橋国博もデジタル・インクゼット作品を解禁致しました。

 

●3月期の写真展=若林勇人さんの本棚に付きまして。

本日3月13日(水曜日)=19時〜21時まで「作家の本棚から見えてくるもの」主催=「若林勇人」氏、開催致します。

作家自身が自身の本棚から過去〜現在と影響を受けた書物の一部をギャラリー冬青にお持ち戴き作家とディスカッションを致します。

是非、ご参加下さい。

先着10名様。
参加費=無料 

 

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