2018年7月28日 昨日、六本木まで・・・。

昨日、3時過ぎ位だと思う。

六本木にある「禅フォトギャラリー」に所用があり、手で持って行くのには少々重たく、自動車では駐車場からでは遠く最終的には90CCのスクーターに20kg位を積んで向かった。

行きは渋谷を抜け、246号線に出て高速道路の下を走り六本木交差点を右折して「禅フォトギャラリー」へ。

 

野村ニナさんと少々雑談をさせ戴き、帰りは青山をぬけ、神宮外苑に立寄り、国際競技場の工事現場を観て、原宿、代々木、中野へ帰り着いた。

19時を回っていたと思う。

様々な情報で都心の工事のことは聞いていたが、実際にスクーターで走りながら観てみると至る所で大工事が行われている。

都心は全体が工事現場化されていることに驚かされた。

 

東北三県の復興、まだ終わらぬ除染問題、熊本地震、大阪地震、西日本の大水害、異常気象、多くの方々が亡くなられている。

最近ニュースには余りあげられないがリニュアーの工事の問題。

トンネルの公害土壌をどこに排出するのか報道されていない。

そればかりではない「富士山」や都心の放射線線量が発表されない。

 

特に、工事現場での人でが足りない、足りないと言われている。

益々、遅れる災害復興地の人手。

政府は予算を付けた、付けたと言うが人手はと聞きたい。

 

都心全体が工事現場化されている。

これで良いのかと素人の私でさえ考えさせられた。

3.11のとき、私たち日本人は一旦は立ち止まり己を還り見たはず・・・。

まだ私自身、還り観れていないが・・・。

日銀も政府も一体となって莫大なお金を市中に供給し続けている。

この返済は誰が担うのか。

日本のあるべき姿のグランドデザインを誰がしているのかと思う・・・。

 

少子化が進む中、経済が未来永劫に拡張するなどと思えない。

一時、市町村合併が進められたが何のためであったか今になっても解らない。

日本は、日本人は私も含めて全てに麻痺され、日常の生活に慣れっこに成っていないかと昨日、スクーターで都心を走りながら考えさせられた。

 

これで良いのか日本として、日本人と(私も含めて)考えさせられた。

疲れが一気に出てしまった・・・。

 

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2018年7月25日 デジタル作品の最終形・・・。

デジタルカメラ、その周辺機器の開発は留まることはないと考えます。

最大手メーカーの話によると、インクを染料に変えると言う話すらあります。

既に最高機種は染料です。

 

以前撮った作品、10年前、5年前、3年前を観て最新機種と比べて見劣りを感じたりして、もう一度、作品を作り直したくなったり、直したりする衝動にかられることも多いと思われる。

デジタル作品の良き点でもあり、困った問題でもある。

 

以前にJ・ポール・ゲティ美術館のキュレターのアマンダ(写真部門)さんに聞いたことがある。

デジタル作品もゲティ美術館は購入しているのかと、デジタル作品も購入している、全てヴンティージ作品を購入しているとのこと。

作者が10年前のデジタル作品より、今日の作品の方が良いと思い作り直したときはどうするのかと更に質問をさせて戴いた。

(ヴンティージ作品は撮影した年から、5年以内にプリントをしていること、更にはファーストプリントであること、また、30年を経過していることが最低条件、何れこのことはギャラリー冬青にて高橋国博のワークショップを考えています。

 

アマンダさん曰く、10年前のデジタル作品でなんら問題はない。

10年前のデジタル技術、プリントの仕上がり、用紙も含めてその時代性が大切である。

写真表現の大切なところは美しいプリントを残すことも大切だが、その時代性が解ることがもっと大切です。

その時代性が解らなければ写真表現の意味をなさないとキッパリと答えられた。

 

デジタル作品において自身の最終着地点を確りと把握し見定めておくことが大切に思う。

レタチを始めるとキリがなくなる。

観る側もデジタル作品を観るとき制作された時代を含めて鑑賞致さねば、非難めいた言葉しか出てこなくなる。

その危険性を強く感じます。

 

ゲティ美術館のキュレターのアマンダさんの見識、意見を踏まえてデジタル作品のヴンティージ性の大切なところを見落としてしまう。

デジタル作品は美しきところだけを見定めるのではなく、その時代に制作された作者の意図、技術も含めて鑑賞することをお勧め致します。

 

私たちが階調浅い古典技法の様々な作品を観て感動するように、10年前のデジタル作品を観て予見を持たずに、素直に感動を覚えたいと思います。

 

デジタル作品は観る側には、見識の大きさ、広さ、深い美意識がより多く、強く求められていると思う。

 

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2018年7月24日 デジタルカメラの良きところと、悪しきところ・・・。

デジタルカメラについて度々、ブログに書いて参りました。

その結果として高橋はフイルムカメラが好きというレッテルを貼られてしまいました。

定着を致しました。

それはそれで良いことで、喜ばしいことだと思ってます。

実際に古典技法やフイルムカメラが好きです。

だからだと言ってデジタル作品が嫌いということに繋がないことを申し上げます。

 

素晴らしい作品であれば古典技法、フイルムカメラ、デジタル作品を問わずコレクションを致します。

好きです。

 

デジタルカメラの良きところとは周辺機器、ソフトも含めて進化をし続けていることです。

先週土曜日に「iphone」に切り替えました。

まだ全く使いこなせてはいませんがカメラの美しさ、カメラワークの利便性には驚くべきものが搭載されています。

「iphone」でこの機能、カメラは必要なのかと思う程です。

デジタルカメラの良きところとは、こうして各メーカの凌ぎを削り(生存をかけて)研究、開発され私たちに今迄、体験の出来なかった世界へ誘ってくれることです。

まさに異次元の世界を私たちは目にしたり、体験、体感することが出来ます。

古きデータですら、鮮やかに蘇ります。

 

悪しきところは一端、決着をした作品でもついつい、いじりたく、修正したく、増幅、加筆(イメージを付け加えること)したくなったりすることではないでしょうか。

レタッチの繰り返しです。

古典技法やフイルムカメラでも多少はファーストプリントより、いじりたくはなりますが、基本的には精神的にはファーストプリントに近づけようと致します。

それに比べてデジタルはいっこうに終着点が見えないことです。

執着しすぎることです。

気が付けば無意識の内に作品をいじり、修正し、増幅、加筆しているかもしれません。

もっと困ったことは以前の自身のデジタル作品と比べ、見劣りを感じたり、否定したりが始ることです。

(このことは明日にでも書きます。)

 

更には新しい周辺機器やソフト、カメラが出ればそれらと対比が始まり益々、作品に対して終着点が解らなくなることです。

メーカーの開発意欲は凄く、2020年には間違い無く8Kカメラが発売されると思います。

「決定的瞬間」一度は目にし聞いた方々も多いと思います。

この「決定的瞬間」すら無用な時代に突入しているかも知れません。

気が付けば私たちはメーカーの手の平の上に乗せられているのかも知れません。

 

作家性とはなにか根本的に問われる時代も間近かも知れません。

 

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2018年7月23日 テキストとステートメントの違い。

写真展や写真作品集を出版するとき、テキストとステートメント、作家の履歴書が必要である。

テキストは言うまでもなく作品のテーマに付いて書くことである。

テキストは懸命に熟慮して書かれていると思う。

引用文の羅列は説得力がない。

説得力に乏しいと思う。

もし、引用文を掲載するのであれば、その引用文のどこに魅力を感じ、作品にどう影響を与えたかまで書くことが必要に思う。

自身の言葉で書かれたテキストは、これ以上の名文はないと思う。

とても素直に感動する。

名文、名文をと思い力がはいり、人に感動をと思うばかりに引用が多くなったり、難しい言葉を探したり、辞書を引いて始めて使う言葉で綴ったりとしてしまいがちである。

その結果として作品から遠ざかってしまう。

自身の自己満足に終わり、観る人、読む人に解らない言葉で綴られている。

テキストは素直に自身の心に触れた感動を、自身の知っている言葉で表すことが大切に思う。

素直な言葉ほど、自身の言葉ほど、観る人、読む人に感動を与えると思う。

 

実はテキストよりステートメントの方が大切であることを知らない方々が多いことに驚かされる。

日本人の作家でステートメントを、確りと書かれている写真作品集や写真展で目にしたことは殆どない。

或はステートメントを作家履歴として勘違いをしている方々も多い。

海外の作家の方々は自身のステートメントを確りと準備している。

 

ステートメントとは、なぜ自身は私は「写真表現」なのかと言うことである。

ペインティングや彫刻、音楽、文字などなどアートを表現する手段、自己表現をする手段はいくようにもある中で、なぜ「写真表現」に拘るのか・・・。

自身と写真表現の関係性を語ることがステートメントの役割り。

 

日本人の多くはこのステートメントを持ち合わせていない。

このステートメントの大切さを大學や専門学校のカリキュラムの中すら入って居ない。

教えられていない。

何故か私には理解出来ない。

テキストとステートメントと一緒であると勘違いをしている人も多いことに困惑を覚えます。

 

作家履歴は自身の人生の履歴であある。

多くの写真展や写真作品集では写真暦以外には綴られていないことが多い。

どうしてか、いつも不思議に思う。

自身の人生の履歴そのものが可視化され作品に現れているはず。

それが故に履歴は写真歴に留まらず人生の履歴書であるべだと思っている。

写真歴だけが作品を育てたわけではない、自身の人生そのものが表層として現れるのではないでしょうか。

自身の経験が被写体との向き合い方を自身に知らしめてくれるのではないでしょうか。

作家歴は自身の人生の軌跡、履歴そのものだと思います。

作家歴は自身の人生の履歴書を綴るべきだと考えます。

 

これから写真作品集や写真展を考えるなら「テキスト・ステートメント・履歴書」は必要アイテムです。

 

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2018年7月20日 「写真と言葉」

一昔「写真は観れば解る」と言う言葉、概念がまかり通っていた。

今でも「写真は観れば解る」と語る写真家がいることにとても寂しさを覚える。

しかし最近、私の概念が変わりつつある。

 

写真には言葉が必要なのか・・・。・・・と。

基本的には自身の作品について語られることが出来なければ海外では通用しない。

作品以上のことを言語化することが大切。

海外の作家は見ぶり手振りを含めて作品のことについて語る。

語ることが出来る。

このときはコミニュケーションではなくリベートだと体験したことが度々ある。

相手を洗脳するぐらいの言葉で迫ってくる。

 

しかし最近、私の概念が変わりつつあると書いたのは、観る側の権利として言語を超えた作品に出合いたいと思うからだ。

厚さ0.5个睨たない表層に現れた被写体は作家力により、観る側を未知なる想像の世界へと誘ってくれると信じるからだ。

そんな作品と出合ったときの喜びは何ごとよりも代え難い。

ギャラリーや美術館にいくとき、そんな作品と出合えることを想像するだけでもワクワクとする。

その反動も幾度も体験してきたが・・・。

 

作家の義務として「写真は観れば解る」と片付けるのはあまりにも無責任の様に思えてならない。

写真は観ても解らないのが現実であることを表現者は理解すべきだと考える。

作品はコミニュケーション。

表現者の言語はリベートを超えたコミニュケーションが必要だと思う。

表現者の義務としてテーマについての言語を持たなくてはならない。

表現者の義務として説明責任があることを理解すべきである。

自ら積極的にかた語りかけることが求められる。

 

今、写真集でテキストがない写真集が国内外で多くなっていると言われるが、それ程多くはなっていない。

昔から思えば多少は増えているような気もしているが・・・。

私から言えば無責任だと思っている。

私の手元にも何冊かの写真集があるが一度、目をとおしたら終わり。

二度と書棚から出る事はない。

どこか薄っぺらに思えてしかたがない。

 

テキストやステートメントを読むことにより、より作品の中へ広く、奥へと引き込まれていく。

テキストやステートメントは作品を軽減するものではない。

 

冬青社の写真作品集はテキストとステートメントを充実する。

今日のブログを書き終えてヤッパリ「写真には言葉が必要」

 

でも、観る側の権利として言葉を超えた作品に出合いたいと思っていることも事実。

 

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2018年7月19日  職業としての専門写真家の優位性が失われつつある・・・。

私はプロの写真家、アマチュア写真家と区別することは嫌いだ。

しいてプロ・アマと区別すれば作品に対しての執着度、粘着度、継続性と思われるがそれすらあやふやだと思っている。

レジタルカメラ、周辺機器、搭載されているソフトの進化は「 職業としての専門写真家の優位性が失われつつある」ことは事実だと思う。

「職業写真家(カメラマン)」の領域では既に起っている。

 

昔言われた「職業写真家(カメラマン)」と「専門写真家」とは区別したいと思っている。

「専門写真家」はあくまで作品を作り続ける、写真作品集を作り続ける。

一過性ものではない。

昨日、渡部さとるさんがギャラリー冬青に遊びに来て下さった。

おもむろにアイホンを取り出し1枚のポートレート写真を開き、泣いたり、笑ったり、目を大きくしたり、細くしたり、つり上げたり、下げたり、美人顔にしたり指一本でいか様にも変化出来ることを実演をして下さった。

 

驚くべき!!。

進化。

今や写真学校を含めて職業としてのポジションが浸食されるばかりではなく、失われつつあるのではないかと思わざるを得ない。

 

昔は「ライカ一台で家が一軒買えた」と言われた時代。

写真機そのものが高価で昔の写真家は裕福な家庭な子供が多かった。

この時代は職業として、趣味としても技術の修錬、修得が必要であったことは言うまでもない。

 

私たちは昔の写真家の作品(内田九一・上野彦馬・林忠彦・・・)に何かを感じ引かれるのはなぜか・・・。

それは「品格」ではなかろうかと最近、益々思うようになっている。

「品格」や「オーラ」は作家そのものが持つ人間性、人格、内容、技術、美意識、着眼点などなどと思っているが「AI」が進めばこの領域すら解らなくなるかも知れない。

 

しかし、現在、今日、作品の「品格」や「オーラ」の優位性は「専門写真家」の領域だと思っている。

作品には益々「品格」や「オーラ」を「専門写真家」は要求されるのではないかと思われる。

 

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2018年7月18日 昨日、田中長徳先生と8時間・・・。

田中長徳さんの「東京ニコン日記」(撮影年1960年代)の作品444枚にサインを入れて戴いた。

始まりが14時、終わったのが22時。

8時間あまり、多少の雑談の時間を交えながら、とても私にとって有意義な時間であった。

 

田中長徳さんの真摯な姿勢。

それは生き方にも。

写真に対してはもっと真摯であられる。

 

プリントの裏のサインは最低でも「タイトル」「撮影年」「制作年」「作家名」「エディション」5個の記名を致さねばならない。

延々と続くサインの時間。

水分を十分にとりながらサインは進められた。

後半、雑談の時間も多くなり、また気合いを入れ直してサインを作品に入れ始められる。

 

驚かされたのは田中長徳さんの写真への思い、一貫して変わらぬ真摯な姿勢。

ルーペを持参されて居られた。

作品は四つ切り。

気に成る個所や文字を見つけられたら、必ず何が写っているか、何が書かれているか、ルーペで確認される。

おお!!。ビール一杯100円だとか・・・。

カスタードクリーム350円、随分高いものを食べていたのだとか。

これ、家内と食べに行ったんですよとか。

この姿勢は終盤になり、どのように疲れてても、作品のなかの気に成る個所や文字を見つけられたらサインの手を止められ、ルーペで確認され、「そうだったなー!!」「そうだったな!!」と納得される。

一枚、一枚の作品への強い愛着度を感じざるを得なかった。

この姿勢は最後の一枚まで変わることはなかった。

 

田中長徳先生の写真(機器も含めて)への造詣の深さは皆さんが知るところです。

読書の幅の広さ、深さ。

人脈の広さ(国内外も含めて)文豪から芸能関係、アーチストや様々な分野の方々との交流。

雑談も多岐に渡り田中長徳さんの様々造詣の深さに驚かされ、これらが全て田中長徳さんの作品の中に埋め込まれているのだと感じながら444作品、1作品ごと5個のサインを終えたのが22時。

 

面白かったのは田中長徳さんと高橋の作業の進め方。

総枚数444枚、6個のサイン。

全く真逆・・・。

始めは解らなかった・・・。

 

中盤前になり残り約300枚程・・・。

高橋さんそれで全部ですか・・・。

ハイ、そうです・・・。

後、1時間で終わりますねと・・・。

えええ・・・。

まだ、半分も進んでないのに3時間は有に超しているのにと思ったが・・・。

1時間で終わるはずがないと思ったが・・・。

は、はい。そうですかと。

 

それから暫くして・・・。

後、残り100枚ですね・・・。

いいえ200枚はあると思います・・・。

いいえ100枚です・・・。

では、101枚ではと申し上げた・・・。

 

さらに、残り30枚ですねと・・・。

あそうかとここで気がついた・・・。

残り15枚位ですかにと申し上げると・・・

ニッコリとされでは、最後の気力で頑張りましょうと・・・。

意欲を見せられる。

全く、高橋と思考が逆であった。

 

高橋の場合、多めにカウントをして自身にプレッシャーを掛け意欲を増すのに対して、田中長徳さんは少なめに設定して意欲を掻き立てられる。

全く逆の回路。

全く思考が逆。

編集者と作家の違いかなとも思った。

 

田中長徳さんの作品を確認されながらの一つ、一つの作業、全ての人柄が、作品はこうして生まれるのだとリアルに体験できたことは私、高橋にとって、こんな至福な時間を久しぶりに味わった。

正直、二人とも疲れは限界まで来ていたが、おみおくりをし、後片付け、戸締まりをして家に着いたのが23時を回っていた。

 

昨日は熟睡が出来た。

それは満足感からか・・・。

疲れからくるものか・・・。

まだ、解明は出来ていない。

 

とても、とても至福な時間であったことは間違いない。

 

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2018年7月17日「写真ほどリアルに後世に残るものはない」

「写真ほどリアルに後世に残るものはない」と言うタイトルで林忠彦写真展が「FUJIFILM SQUARE」7月31日まで行われている。

先週、土曜日に観に行った。

私自身も「写真ほどリアルに後世に残るものはない」とも思っている。

私がアートの中でも写真が好きになった動機の一つでもある。

しかし最近、写真は本当にリアルなのか、写真はリアルであるべきなのかと疑問を持つようになったことも事実。

だからだと言って写真が嫌になったのではなく、より好きになり興味の範囲が広がっている。

リアルの定義について下記のことが書かれている。

 

『デジタル大辞泉 - リアルの用語解説 - [名・形動]1 現実に即していること。また、そのさま。あるがまま。「現実をリアルに見据える」2 表現に現実感・迫真感のあること。また、 そのさま。写実的。「リアルな肖像画」「苦悩をリアルに描く」3 現実世界。実社会。』

 

林忠彦展を観ながらタイトルとは相反する作品があるなあー!!、と思いながら観ていた。

私が林忠彦の作品が好きであることを先ずはのべておきたい。

戦後のまもない時期と思われる写真。

銀座であろうビルの屋上の50センチも満たない、欄干もないコンクリートの淵に寝転んで水着姿の女性が日光浴をしている写真があった。

どう見てもこの時代、この姿で、このような危険な場所で水着姿で日光浴をするとは思えない。

リアル写真とは言いがたい作品。

しかし、とても私の足を長くとめ見いったインパクトのある作品である。

 

林忠彦が生きておればこの作品についてリアル写真とは言うまいと思いながら観ていた。

しかし、この写真の不思議なところは、観る側の私たちには、とてもリアルに見えることだ。

写真表現に求められていることは「現実」か「非現実」ではないかと思っている。

「現実」・「非現実」の違いは写真表現においての芸術性おいて、それ程問題では無い。

制作者が「現実」・「非現実」かを理解しておけば良いことだと思っている。

 

リアル写真であろうと演出写真であろうと制作者の意図が明確であれば良いことになる。

演出写真をリアル写真であるかのように語り、疑似作品を制作することが問題だと思っている。

疑似作品と演出写真は全く違うとも思っている。

しかし、疑似作品も制作者が本当に認識をし表現したければ芸術性は問われることはない。

 

リアル写真・演出写真・疑似作品は制作者の意志、意図に委ねねばならないことは確かだが、制作者は制作意図をハッキリと語りかけて欲しい。

示して欲しい。

また観る側の私たちはどこで満足が出来るのかを自身で認識しておくことが大切に思う。

 

しかし、林田忠彦の屋上の水着姿の写真、不思議と私にはリアルな写真に見えた。

とても満足をした。

ヤッパリ写真は面白い。

 

ただし、なぜ「写真ほどリアルに後世に残るものはない」と表題を付けたのか疑問が残っている。

 

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2018年7月13日 芸術と生活・・・。

私たちは日常生活の中でセンスよく、心豊かに暮らしたいと思っている。「

鶴見氏は芸術を「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」の3つに分類している。

鶴見氏の言葉をかりれば「人間生活の芸術的側面全体」に、「芸術の意味」が及ぶことになります。

日常の生活ありかたそのものが芸術だと鶴見氏は私たちに語りかけたいのではないでしょうか。

 

『限界芸術(げんかいげいじゅつ)とは、哲学者の鶴見俊輔が、芸術生活の境界線上に位置する広大な領域、専門的芸術家によるのでなく、非専門的芸術家によって作られ大衆によって享受される芸術を指していったもの[1]。鶴見は、芸術を、「純粋芸術」、「大衆芸術」、「限界芸術」の3つに分類している。

鶴見は、5000年前のアルタミラの壁画以来、落書き、民謡盆栽漫才絵馬花火都々逸マンガ[2]にいたるまで、暮らしを舞台に人々の心にわき上がり、ほとばしり、形を変えてきた芸術的な表現を限界芸術とする。鶴見によれば、柳田國男柳宗悦宮沢賢治らは限界芸術の先駆者と見ることができるという。』

 

マナーであったり、言葉つかいだあったり、立ち振る舞いであったり、なんでもない時の仕草であったり、自身だけではなく、回りの人まで豊な気分させてくれる。

鶴見氏の分析「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」から読み取れば「純粋芸術」が一部の専門家のものである根拠が少なくとも希薄なものだということが理解できます。

私たちは「芸術」と聞いただけで「純粋芸術」と直に思う浮かべ考えがちです。

 

無論、「純粋芸術」を味愛、堪能することは自身の環境の輪を広げたり、豊かにすることに手助けになることは間違いありませんかが、そればかりではないはずです。

鶴見氏の書物の中には書かれてはいませんが、字間、行間から読み取れば「芸術」=「純粋芸術」ではなく、日常生活そのものが芸術であり身近なものですと・・・。

さらに読み解けば「純粋芸術」ですら、知識人や専門家、特権階級のものではなく私たちの日常の生活の中にあるのだと・・・。

 

私たちが日常のなかで「芸術」という境界を広げていくことによって「芸術と生活」が一体化され日常生活が美しく、豊かに過ごせるのではと考えます。

「芸術」は身近なものであり、日常生活の中にあると考えます。

「美しきマナー」は他の人ともに豊さを享受できると考えます。

 

どうすれば「美しきマナー」を持って生活出来るのかと言えば「純粋芸術」「大衆芸術」「限界芸術」はとても、身近なものであり、身近にあると認識することが大切に思えてなりません。

 

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2018年7月12日 アーチストが貧困な理由の一つ・・・。

1年程まえに実際にイギリス・ロンドンでギャラリーを経営していたから聞いた話。

ロンドンでは殆どのギャラリーが水曜日にオープニングパーティーを開くそうだ。

センターテープルにはドリンク(シャンペンゃビール、ワインなど)とドネーションboxが置かれていると。

ドリンクはワインメーカーや各メーカからの寄贈。

 

ドネーションとは、ソフトウェアの利用に対する対価の支払方法のうち、ソフトの作者に対して任意で支払われる料金のことである。 ドネーションとは一般に「寄贈」を意味する英語である。 ドネーションの支払を条件として配布されているソフトウェアは、一般にドネーションウェアと呼ばれている。』

 

その、ドネーションboxには「作家のために」とか「ギャラーの改装のために」とか、今、日本で言えば「西日本の水害被災のために」とか、ギャラリーごとに、ドネーションboxには確りと使用目的を書かれているそうだ。

お客さまは水曜日のギャラリーツァーを楽しみにして、各ギャラリーで一杯のドリンクとアートを楽しみ、次のギャラリーへと足を運ばれるとのこと。

滞在時間は10分前後だとのこと・・・。

気にいったアーチストや作品があれば、後日必ず来館されるとのこと。

 

帰り際に、ドネーションboxに小額、時によっては中額のコイン、紙幣を入れて次のギャラリーへと・・・。

子供連れの家族でのギャラリー巡りを楽しんでい方々も多く水曜日を楽しみにしていると。

ヨーロッはでは小さいころから作家に対して、スポンサーシップが自然と身につき、身についているとのこと。

小さな子が1コイン、ドネーションboxへ入れる姿は愛らしく、なんとも言えない胸が熱くなる光景を体験したと語って下さった。

 

お話を聞きし、アーチストに対して、アートに対しての接し方が幼い頃より違うのだと思った。

うらやましとも思った。

文化の違いを感じた。

アーチストへの思い、接し方が違うと・・・。

なんと、素敵な習慣であり文化だと羨ましく思った。

 

作家の活動は制作活動だけではない、作品が人の手に渡らなければ次の制作活動にも支障がきたさないとも限られない。

私はアマチュア、プロと分離することは望まないが、本日は便宜上アマチュアと呼ばして戴く。

日本のアマチュアの方々は高額なカメラやレンズ、周辺機器を含めて相当数の装置を持たれている。

装置類の購入金の一部で良いからアーチストのために、小スポンサーで良いからなってくれないかと何時も思っている。

でなければアートの輪は広がらない。

アート文化は広がらない。

なんらかの形で直接的にアーチストの小スポンサーになって欲しいと思う。

日本の教育、地域文化、家族文化のアートに対しての教育が悲しいと思う。

 

良きアート、楽しきアートを観たいと思う。

観たいと思うのであれば、観る、見せて戴く私たちもアーチストを育てる責務の一端があるのではなかろうか。

先ず、1枚、1点求めて戴きたい。

1年に1枚、1点求めて戴きたい、そうすれば自身のアートの視野が広がります。

 

素晴らしきアーチストを、将来性のあるアーチストを放置していてはいけないと思う。

アーチストの貧困を許し、放置してはいけないと思う。

観る、見せて戴く側の1枚、1点がアーチストへの多大な希望を与え、次なるモチーフへと突き進む勇気を与えるかを体感して欲しい。

理解して欲しい。

 

アーチストを貧困に放置していてはいけない。

観る側、見せて戴く側の姿勢を一歩立ち止まって考えて欲しい。

アートをアーチストともに楽しみたい。

 

サアー!!。私たちも小スポンサーになれる。小コレクターになれる。

 

 

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