2018年6月4日 一歩、一歩の積み重ねが・・・。

バトミントンの世界選手権で史上最多のメダル4個を獲得した奥原希望(のぞみ)選手のインタビューの中から・・・。

昨日、奥原希望選手のインタビューがTVに流れていた。

夜の10時位だと思う。

どこのチャンネルか覚えていない。

 

奥原選手は2度の大きな膝の手術をし、今年の世界選手権に望んだ。

印象に残った言葉が2つあった。

※1つ目は父親から言われてきた言葉。

「迷ったら、難しい道を選びなさい。」

※2つ目は

「私は日本人のどの選手より練習を積み重ねている、負けることは想像をしたことはない」

 

アスリートは日々のたゆまない努力により結果として現れる。

その結果が22歳にして世界選手権での史上最多のメダル4個を獲得に繋がった。

「日々の努力の中には喜びや希望もあるが、それと同じ位、挫折もある。

挫折しそうになったとき、挫折したとき、自身のモチベーションをいかにプラス思考に持って行けるかが大切だと思う」とも語っていた。

 

写真表現のあやふやさは「シャッター」を切ればなにがしが写ってしまう。

それだけに自身の作品へのモチベーションを高め持ち続けなければならない。

たゆまない自身のテーマとの研鑽、格闘が特に写真表現は求められていることを自覚し、ハード的(技術)にもソフト的(テーマ)にも、さらには人格形成(コンセプト)的にも努力致さねば、自身の目的とした作品は、可視化されないのではと思う。

 

特に、写真表現は他のアートと違い装置を介在させるため「シャッター」を切ればなにがしが写ってしまう。

「写ってしまう」恐ろしさがあるということを、自覚したものだけが表現者といえるのではないかと奥原選手の言葉から学んだ。

 

奥原選手の言葉・・・。

「迷ったら、難しい道を選びなさい」

「私は日本人のどの選手より練習を積み重ねている、負けることは想像をしたことはない」

自身のポリシーやモチベーションがどこにあるかで、一流作家か二流作家の分かれ目になるような気が、奥村選手のインタビューから、想像した。

そこにはプロの写真家もアマチュア写真家も関係がない。

ポリシーやモチベーションを持つ続けたものだけが、作品として正しく評価をされるのではないかと・・・。

 

自身の作品制作活動のうえで、ポリシーやモチベーションを高い位置でキープしたものだけが受け入れられると信じます。

 

私は私のブログのうえで「写真作品集を芸術の花束として、世に送りだしたい」と何度も語りましたが私自身、ポリシーやモチベーションを高い位置でキープしているのか奥原選手の言葉から反省を迫られた。

今年に入って土曜日、日曜日と殆ど休みがとれていない。

こんなことを愚痴るぐらいではまだだめだと・・・。

 

一歩、一歩の積み重ねが大切。

奥原希望選手、22歳のインタビューから。

 

 

●ギャラリー冬青からのお知らせ。

※2018年6月8日(金曜日)19時30分〜21時、沈昭良(台湾・写真家)×関次和子(東京都写真美術館・学芸員)によるトークショーがございます。(申し込もを終了させて戴きまして。)

会費=1.000円

※ギャンセルが出ましたら、随時受付をさせて戴きます。

 

※お申し込みはギャラリー冬青 <gallery@tosei-sha.jp>のメール、電話03-3380-7123にてお願い致します。

 

●下記、コマーシャルは冬青社、ギャラリー冬青、高橋国博のブログとは全く関係がございません。


2018年6月1日 撮らされているのではないか???。

最近、思うことがある。

デジタルカメラとその周辺機器の開発、発展はめまぐるしく進化している。

8Kカメラも2020年には売り出しがされるとの噂が流れている。

 

1839年、一応は写真の起源とされている。

1839年から写真の技術は進化してきた。

それは、「写し手」が利便性やモット記録を残したい、モット美しく、モット早くとか写真機の進化は「写し手」の要求であり希望でもあった、主役だったと思う。

「写し手」の要求に答えるものであった。

「写し手」が主役であった役割りはデジタルカメラが出現するまで続いたと私は振り返る。

自動露出計やズームレンズ、連写シャッターなどなど、数えきれないぐらい写真機は進化をとげた。

しかし、それらの進化は「写し手」の要求から各メーカーは凌ぎをけずり研究開発されてきたと私は思う。

あくまで「写し手」が「こう撮りたい」「こう撮らねば」との主体性が写真機の進化に繋がったと思いたい。

「写し手」が主役であった。

 

デジタルカメラの出現により主役はメーカの移り「こう撮れます」との説明に「写し手」は教湧くしながらも、驚き、納得し受け入れているのではあるまいか。

もはや「写し手」はメーカーの「手のひら」中にあるのではないだろうか。

主役がメーカーに・・・。

メーカーの開発に戦々恐々として受け入れなければならない現状。

だからこそ「こう撮れた」ではなく「こう撮りたい」ではないかと思います。

 

写真家・土田ヒロミさんの言葉を思い出す。

「デジタルカメラはどうしてもシャッターを押すことが多くなるよね」と。

この言葉はとても私には意味深い言葉だと受け止めている。

 

今日のブログのタイトル「撮らされているのではないか」と通じるものがあるように思えてならない。

デジタルカメラの利便性より「撮らされている」のではと危惧するのは私だけなのだろうか。

デジタルカメラの進化の時代だからこそ「写し手」は強固な「こう写したい」という意志を持つことが大切に思えてならない。

「こう撮れた」ではとても悲しい。

「こう撮りたい」ではないか・・・。

 

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※2018年6月8日(金曜日)19時30分〜21時、沈昭良(台湾・写真家)×関次和子(東京都写真美術館・学芸員)によるトークショーがございます。(先着30名様まで、後7名)

会費=1.000円

 

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2018年5月31日 写真表現の領域が狭まっているのでは・・・。

キャノンまでがついにフイルムカメラ、最後の一機種の販売を中止するとのニュースが昨日、流れた。

販売中止の主な理由はユーザーのデジタルカメラへの以降によるものだそうだ。

富士フイルムの製造、販売の中止に続く私にとって大きな衝撃で、どこか寂しさを感じている。

 

写真文化、写真表現文化を共有(メーカー・写し手・コレクター・愛好者などなど)を出来ないものかと考えさせられる。

表現の幅が広い、選択肢が広いほど作品作りには良いに決まっている。

絵画は油絵具は当たり前、水彩や、パステルなどは今も健在。

どのような新たな顔料が生まれ開発されようと、過去の顔料が無くなることはない。

寧ろ、復元、復活されているぐらいだ。

写真表現における、写真器材だけが進歩はしてきたが、過去の表現手段を消し去っている。

その結果、写真表現の領域が狭まっているようにしか感じられない。

 

巨大企業のエゴとしか思えない。

両企業とも全体の企業収益は良いと聞く。その一部を「写真文化」に使えないものかと考える。

株主だって収益の一部を社会貢献として「写真文化」を守るためといえば理解を得ることが出来ると思うのだか・・・。

0(ゼロ)と1は無限大に違う。

0は×10×100×1000掛けても0である。

それに対して・・・。

1は×10掛ければ10に。

1は×100掛ければ100に。

1は×1000掛ければ1000に。

無限大に繋がりを見せる。

 

機械式カメラの衰退は「写真表現」の領域の後退だと思う。

選択肢が多ければ多いほど、デジタル化も更なる発展につながりを見せると考えられる。

企業収益だけのことを考えることの前に「写真文化」とは何卒やと考えることも大切ではないかと考えます。

「写真文化」の上に発展してきた企業だからこそ。

 

その大切なものを自身でなくしているようにしか私には見えない。

とても、寂しさを感じています。

 

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※2018年6月8日(金曜日)19時30分〜21時、沈昭良(台湾・写真家)×関次和子(東京都写真美術館・学芸員)によるトークショーがございます。(先着30名様まで、後9名)

会費=1.000円

 

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2018年5月30日 高橋流、抽象画鑑賞法。

歴史画や宗教画は、それを描くための一定のセオリーがあり、制作意図が明快です。

つまり、観る私たちには絵解きがが出来ます。

それに対して抽象画は作品の外形的解説、つまり制作年代とか、モチーフの解明、作家のエピソードのほかに、色・形態・素材への言及などが殆どで、作品と正面から立ち向かった作品評がありません。

あるのは色彩とフォルムだけだといっても過言ではありません。

 

関係者は一生懸命に解説をこころみるのですが、観る私たちには素直には伝わってまいりません。

抽象画は「感じる」ということがとても重要だと思ってます。

私が抽象画の前に立ったとき「感じる・足が自然に止まる・長い時間作品の前に立てている」などなどが私の抽象画を観るうえでの基準としています。

なにがなんだか解らないのに「オー凄い、凄い!!」と体験したことはありませんか。

 

これは私が抽象画を観ているうちに自然と身に付けたものです。

とくに「感じる」ということは大切にしています。

作品を観て「感じる」ということは抽象画に留まらず、写真展を観に行っても同じ現象が起きます。

「作品は生きている、呼吸している」と思います。

と、感じます。

 

現在、東京都写真美術館ではTOPコレクションとして、今年のテーマとして「たのしむ、まなぶ」展(3階)が開催されています。

有名な差作家の有名な作品が200点近く展示してあります。

久しぶりに面白い写真展です。

そんな作家、作品ですらオウバルックをしてしまいました。

見逃していました。

 

「解説書」や「名画論」「作家論」などを参考程度にとどめて「感じる」ということを大切にしてはどうでしょうか。

そうすれば、気楽に自由にアートを楽しめるのではないでしょうか。

自分自身なりの「感じる」という事を一番大切にすれば「作品の息づかい」や「空気感」が自分のなかに生まれ、広がりをみせると信じます。

 

「作品は生きている、呼吸している」と思います。

それを、感じてみてはどうでしょうか。

 

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2018年5月29日 以外と思われるかもしれないが・・・。

以外と思われるかもしれないが私はとても現代アートが好きだ。

特に抽象画好きだ。

現代アート、抽象画が好きだといっても全てが好きではない。

現代アート、抽象画は高橋的にはハッキリと二分している。

好きな作家、作品と全く受け入れない作家、作品と完全に別れる。

好きな作家は「白髪一雄や李 禹煥」などなど。

好きな写真家で言えば「Wolfgng・Tillmans」などが好きである。

 

良く、現代アートはバカバカしいほど面白いと言われる。

本当にバカバカしいものと、そうでないものにハッキリと二分されているように思える。

本当にバカバカしいものは本当にバカバカしいだけ。

 

現代アート・抽象画のことを下記のように評することがあるが、私はそうは思わない。

「具象画に期待される技術的な基礎や表情の卓越性が伴わない絵画を指すこともある。」と。

「ピカソのキュビスム作品など、厳密には具象であっても事物そのままの形からは離れているので抽象画」だと評する人もいる。

 

私は現代アートであれ抽象画であれ技術的な基礎や表情の卓越性が伴わないとは思っていない。

特に現代アートや抽象画は技術的な基礎や表情の卓越性が伴わなければならない。

たとえば「草間弥生」さんの画学生のころのスケッチブックを観る機会があった。

植物描写の精密で細かいこと。

実に細部に至るまで取材をされ描写され、とてつもない感動をしたことを今でも忘れない。

本物の植物が画集の中に生きているかのように見えた。

ピカソのデッサン力も有名な話。

「Tillmans」作品が全て好きではない。

「Tillmans」の作品で特に私が好きなのは「白とか黒、青・赤」などなど色だけで表現をした作品がある。

徹底的に単純化された作品。

とても好きである。

「Tillmans」のポートレートシリーズは戴けないと思っている。

 

現代アート・抽象画には徹底的に情報を排除しておきながら「何かを感じさせる力」を持っている。

実はそこには観る側に制作者以上のものを感じさせる魔力なものがあるのかも知れない。

もし、そうであったとしても観る側が勝手に想像を脹らますだけの、メッセージ力を作家が持ち得ていることになる。

 

「技術的な基礎や表情の卓越性」に裏打ちされた極限までに簡素化された作品が好きである。

良く、私に向かって高橋はドキュメントの作品が好きだといわれる。

事実、多くのドキュメント作品を扱い、ドキュメンタリーの写真作品集も世に多く送りだしてきた。

事実、高橋がドキュメントの作品が好きだと言うことは間違いがない。

事実、今も優れたドキュメンタリー作家、作品を探していることは間違いない。

 

でも、同じぐらい現代アートや抽象画も好きである。

そのコントラストが編集者としての高橋。キュレーターとしての高橋を育ているのではないかと思っている。

 

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2018年5月28日 アートの可否を判断する物指しはない・・・。

先週、アートを観るより楽しみましょうとブログに書きましたが、アートの可否を判断する物指しはありません。

絶対的なないものにかかわらず、私たちは作品と対峙したとき、作品とのキイワードとの妥当性を無意識の内に検証したり、納得しょうとすることを経験したことは度々あるのではないでしょうか。

 

何とか乖離を埋めようと知らず知らずうちに今迄の知識や図録、解説書や経験などなどと照らし合わせ苦闘してしまうことがあります。

苦闘した経験は一度や二度ではありのせん。

乖離を埋めようとする心は「考える」ことにあります。

まず、出合った作品を先ずは素直に受け入れ、楽しむことだと最近、強く思う様になりました。

 

しかし、乖離することはとてもアートを寄り楽しむためには必要なことでもあります。

作品と乖離したなら「可否」を自分なりにロジカルに「なぜ自分はこの作品(可否)についてどのように印象をうけたのか」を書くことも大切に思います。

 

アートの可否を判断する物指しがないなか、自身が楽しめたかのか、どうかが物指しではないでしょうか。

アートの可否を判断する物指しがないなか一つ言えることは「技術、知識」に裏打ちされた表現でなければならないことは言うに及ばすです。

可視化されたものが全てがアートでは無いことは当たり前です。

特に写真表現においてデジタル化の進歩、進化によりどのようにでも、安易に撮れるようになった。

表現者は群をぬいての「技術、知識」が必要であり、観る側それを見に抜く眼力が必要であることは語らずもかな・・・。

 

しかし、駄作に出合ったとしてもそれなりの楽しみ方があるはずです。

以前いた出版社の社長が編集会議が終わったら良く映画を観に連れていかれた。

中にはポルノ映画や駄作映画にも。

あるとき、余りにもつまらない映画を観に行くことになり、時間の無駄だと思い社長に尋ねた。

なぜ、この映画をと・・・。

社長曰く駄作映画でも、駄作映画なりの楽しみ方があると言われたことを思い出す。

今日になりなんとなく解る様な気がしている。

 

先ずは楽しむ、身近にアートがあるということから始めたいと思う。

その後に乖離したことをロジカルに穴埋めをしてば良いのではと思う。

 

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2018年5月25日 15年前の今日・・・。

今日、1943年5月25日は私の生まれた日です。

父が朝日新聞の特派員で赴任していた、ため韓国・京城(現、ソール)で私は生まれた。

 

2003年の5月25日、私の60歳をきに冬青社をたたみ、オーストラリアをバイクで、乗馬クラブを拠点に一周する計画を念密にたてていた。

そのために周囲の反対を押切、60歳で中型バイクの免許を取得した。

会計士さんともよくよく相談をして全ての計画を進めていた。

出版に関しては遣り終えた感も多少はあった。

 

今迄私が手がけてきた書籍(文芸書)を弊社の2階の会議室で眺めていた。

私の目に飛び込んできたのが、1990年に出版した土田ヒロミ写真作品集「砂を数える」であった。

写真作品集としては冬青社の記念すべき第一作目の写真作品集である。

この写真作品集「砂を数える」には沢山の想い出があり、壮絶なドラマがあった。

別の日にてせも書かせて戴きます。

 

本当に出版社として、出版人として、編集人として悔いがのこらないのかと自問自動が始った。

私の記憶ではギャラリー冬青の2階にある会議室にいた。

時間は21時を過ぎていたと思う。

今は他界した妻から子供達がケーキをカットしたいといって、待っているとの電話が会社に入ったことを覚えている。

 

それから、暫く写真作品集「砂を数える」をページを開かずに、会議室の机の上で見ていた。

真剣に写真に、写真作品集と呼べるものを、制作したいと心の底の悪魔のマグマが沸き起こってきた。

では、後5年間、65歳まで写真と向き合いたい。写真集と向き合いたいと思った。

65歳でもオーストラリア一周は遅くない、よし65歳からに計画を延長して5年間、写真作品集だけに特化した冬青社を新たな門出として出発することを決めた。

 

時計を観ると24時を遥かに回っていた。

慌てて家路についた。

誕生祝いのケーキを食べたかどうかは覚えていない。

無論、子供達は寝ていた。

 

翌日、直ぐさま会計士さんに65歳まで続ける旨をお伝えして、資金繰りの計画の依頼をした。

会計士さんはあれほどオーストラリア一周に憧れていたのにと・・・。

出版業界に詳しい会計士さは猛反対・・・。

1ヶ月位して会計士さんが資金繰り計画を高橋の性格(会計士さん曰く高橋社長の性格が一番重要な要素だと)を組み入れて、持ってきて下さった。

帰りぎはに一言、本当に65歳までですよと。

65歳になったら必ずどオーストラリア一周に旅達て下さいと・・・。

65歳になり凸版印刷の営業職人の猪野直貴さん、AD職人の杉山幸次さんと出合うことになる。

もっと面白い、もっと美しい、誰も到達しえない領域の写真作品集が出来るのではないかと実感出来始めた。

また、作品として出来はじめた。

このお2人のお力添えがあり70歳まで続けることを再・再、決意、決断させて戴いた。

猪野直貴さん、杉山幸次さんにお会いしていなければ間違いなく65歳でリタイアしている。

 

猪野直貴さん、杉山幸次さんのお力添えを戴きながら、凸版印刷さんでも始めての印刷(方法・拘り・インクのブレンド)へのチャレンジなどをさせて戴いている。

会計士さんが恐ろしい顔であったことは言うに及ばずです。

70歳を迎え本当に素晴らしく、豊かに表現されている写真作品集が生まれている。

で、75歳まで延長することを子供達、会計士さんにも告げた・・・。

 

こんどは写真家の方々から東京オリンピック迄は続けて欲しいとの声が届き始めた。

子供達は全員反対・・・。

会計士さんは諦め顔で・・・。

 

と、いうことで2020年、東京オリンピック迄延長させて戴くことになった。

本当に2020年で幕を引く。

二輪車は無理なので、計画を変えて「シカゴ〜サンタモニカ」(3500km)「ルート66」を四輪車に計画を変更した。

 

多くの人々、コレクターの方々、写真家の方々、凸版印刷の猪野さん、杉山さんに助けられて今日、2018年5月25日を迎えました。

出版社としての冬青社、ギャラリーとしてのギャラリー冬青を支えて戴いた皆様には、ブログ上で大変恐縮ではございますが、皆様に心より感謝もうしあげます。

お礼申し上げます。

 

後、2年と6ヶ月全力で進んで参ります。

 

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2018年5月24日 アートは観ることではなく楽しむことすが大切・・・。

アートは観ることではなく楽しむことすが大切だと思ってます。

観るという行為は、ややもすれば学習するという行為に繋がりなりかねません。

その理由の一つには潜在的にこう観なければならないと意識が無意識に働き、理解したい、解ろうとする行為が強くなることです。

無論、学習をするという行為においては無駄なことではなく、大切な行為の一つと考えられますが・・・。

今日のブログはアートを楽しむということに力点をおきたいと考えます。

 

確かにアートを観るのは難しくもありますが、難しいといって諦めたり、手放したり、究極は拒否していまうことがアートから自身を遠ざけてしまうことに繋がりかねません。

 

アートを身近なものとするには私の場合「知的エンタテイメント」として遊ぶことであり、それを楽しむようにしています。

私の場合「知的エンタテイメント」とは、作品を見ていくことにおいて、レセプターをよく働かせることです。

アートを楽しむことで、知的な刺激をこれほと生むものは他にないと考えています。

 

なにしろアートは考えようによっては、テリトリーや情報量は広大ですから楽しみかたは無限にあると思ってます。

どのように楽しんでも自由であるというジャンルは、ほかににないかも知れません。

アートを身近なものとして楽しむことは、常にウォーカーがいかようにもルートを考えられるというところに喜びも楽しみがあるのではないでしょうか。

 

アートは時代や社会の変化とともに新しく、次から次と生まれてまいります。

それらを全て理解しょうとしても。物理的に無理な話です。

先ずは出合ったアートを素直に自身に忠実に楽しめば良いのではないでしょうか。

 

理解するまえに先ずは楽しむということが大切に思えてなりません。

楽しんだ上で「観る」「理解を深める」ということではないでしょうか。

 

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2018年5月23日 二川幸夫「日本の民家」から学ぶもの・・・。

二川幸夫氏は、今まさに失われつつあった日本の民家建築を全国にたずねて撮影をし残したことは、優れた業績として知られています。

写真集「日本の民家」からは、各地で腕を発揮した名もなき職人たちの精魂を込めた作品ともいえる技術の美が伝わって来ます。

 

撮影当時、ゆうに100年は以上は経過していた超えていたであろう、見事な構造的安定感をつくりあげた職人たちの心意気が時代を超えて伝わってきます。

これを見て、私はとてつもない職人技術の歴史を持っていることに恐ろしさを感じました。

日本の各地のどこにも、職人たちの建築技術の部厚さがつい最近まであったという誇りであるとともに、それはほとんど失われました、「日本の民家」を見ているうちに慚魂の念が生じました。

新しい技術の発達より、より安価で、より早く、日本の風土に関係にく建築は進化してきました、真実、事実は後退していると思われます。

日本の風土とはほど遠い建築物が・・・。

 

印刷技術も全く同じことが言えます。

技術の進化により、より安価で、より早くが徹底されています。

私から言わせれば「安かろう悪かろう」と言えます。

東京の下町にも、地方にも以前は個性的な印刷所が沢山存在していました。

腕利き、腕自慢の職人さんが沢山いました。

注文でも付けたら逆に、職人さんから叱られたものです。

中央(東京)、大手の下請けが殆どとなり均一化され、安価で大量の印刷へと印刷機器、その周辺機器も発展して来ました。

 

本当に腕利きの職人さん達がいなくなったことは事実です。

姿が消えました。

平均化され安価とスピードを求めるあまり、酷い印刷物が増えたことも事実です。

写真集という美術品、工芸品まで衰えを見せています。

とても残念です。

 

私たちのチーム。

凸版印刷さんの営業担当・猪野直貴さん、AD・担当の杉山幸次さん、デザイン担当の白岩砂紀さん、編集担当・高橋国博は数少ない、職人集団だと思ってます。

※営業職人の猪野直貴さん

※AD職人の杉山幸次さん、

※デザイン職人の白岩砂紀さん、

編集職人の高橋国博。

 

いつまでも書棚に置いていたいと言う写真作品集を表現したいと思い、一冊毎にチャレンジをしている積もりです。

営業職人の猪野直貴さん、AD職人の杉山幸次さん、デザイン職人の白岩砂紀さんがいなければ現在の冬青社の写真作品集の表現はありえません。

技術を残したい・・・。

何時迄も私たちは「職人集団」であり続けたいと思う。

 

「写真作品集を芸術の花束として 世に送りだしたい」変わらぬ職人集団である私たちの思いです。

 

二川幸夫氏「日本の民家」から改めて「技」の大切さを学びました。

 

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2018年5月22日 編集者としてのプライド・・・。

6年前、サンタフェのキュレーターのお一人、ローランさんが「素晴らしい写真集を作りたいなら」、「素晴らしい編集者を見つけなさいと」、六甲国際写真フェアーのおりに、参加者に向かっての第一声だったことを今でも鮮明に覚えている。

 

鳥肌がたった。

高橋は如何なる者かと・・・。

今でもローランさんの声が耳から外れない。

 

編集者は編集者としてのプライドがあり、美意識もある。

編集作業において写真家の方々と正面からぶつかることもしばしばあった。

土田ヒロミさんの「新・砂を数える」は制作に5年間を費やした。

その殆どが「新・砂を数える」に対してのディスカッションであったことを思い出す。

編集者と作品(テーマ)、作家・土田ヒロミ(コンセプト)のディスカッションであったことを思い出す。

 

作家と編集者の関係はこのことに尽きると思っているが、なかなか難しい。

作家の作品への不自覚体、自覚体。

作家の編集者への不自覚体、自覚体。

編集者の作品への不自覚体、自覚体。

編集者の作家への不自覚体、自覚体。

が、あることを始めから理解していることがとても大切に思えてならない。

 

ディスカッションを行うことにより作家の不自覚体を自覚体へと、編集者の不自覚体を自覚体へと共有することが出来る。

人は等しく不自覚体が存在している。

その不自覚体を共に共有できるかどうかが最大の問題、課題として写真作品集の制作過程すべてに存在している。

 

不自覚体の理解、発見こそが写真作品集の正否にかかっていることを、写真家も編集者も常に理解をしておくことが大切に思えてならない。

 

編集者のブライドとは作家の不自覚体をどこまで言語化し、説明し、納得いくまで持っていけるかにに掛かっていると思える。

それには「とことん」作家に寄り添はなければ作家の不自覚体に触れることはない。

作家に寄り添うことこそが必要だと特に最近、思い始めている。

そうしなければ互いの、不自覚体を見出すことは出来ないと思っている。

作家に寄り添うということは迎合することではない。

 

作家の真意、本質を理解することだと思う。

作家を愛することだと思う。

 

続きはまた別の日でも・・・。

 

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